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 先日、臓器移植法改正法案が衆議院で可決されました。
 今後参議院で審議をされるはずなのですが、どうも政局が揉め始めたようなので審議される前に解散総選挙という事になると、この法案がその後どうなるのか全くわからない。

 可決された法案を改めて確認すると、

 ・脳死は人の死である
 ・本人の同意が無くても家族の承諾で臓器提供ができる(本人があらかじめ拒否の意思表示をする事は出来る)
 ・15歳未満であっても家族の同意があれば臓器提供できる

 というのが主なポイントのようです。
 WHOは「臓器移植のための臓器は自国内で供給するのが望ましい」という方針のようですし、世界的にもこの流れのようです。
 現時点でも日本国内での臓器移植は少なく、臓器移植を必要としている患者全員を救うには程遠い状態になっています。
 その上子供の臓器移植を認めていないので、子供の患者は海外まで臓器移植を受けに行かなければならないのですが、WHOのこの方針だと海外移植の道も断たれかねない。
 臓器移植を受ける側の立場で考えるならば、この改正案は大きな前進です。
 この方向で行かなければ近い内に「日本人は日本人であると言うだけで臓器移植を受けられず、助かるはずのものも助からない」という状況になりかねませんから。
 ただ、これで問題が無いかどうかと言うと、これまた微妙な所です。
 どこまで信用して良いのかわかりませんが、世論調査では国民の多くが「脳死=人の死」という考えには難色を示しているそうです。
 素朴な疑問なのですが、そもそも日本人は「脳死」という状態を理解しているのでしょうか?
 どうも多くの人が「脳死」と「意識不明」「植物状態」を混同しているように思えるのですけど…
 簡単に言ってしまうと意識不明や植物状態は回復の可能性があるが、脳死は回復の可能性が無い、という状態です。
 もうちょっと詳しく言えば「脳幹」という生命維持に必要な部分が生きているかどうか、という事です。
 この違いが正確にわかっている人はどれくらいいるのでしょうか?
 パッと見た感じだと、この三つはどれも「患者の意識が無く横たわっているだけ」なのでその違いがわかりにくいと思うのですが、回復の見込みがあるか無いかでは全く違うでしょう。
 世論調査を参考にする前に、その世論の元になっている国民の「脳死に対する理解レベル」がわからない事には、どこまで信用していいものか…
 逆に言えば脳死と植物状態の区別もついていないような国民だとしたら、まず脳死という状態に対する理解を深めてもらう方が先決ですが。

 国民全員が脳死を正確に理解した上で、上記の世論調査のように反対しているとしたら、これはもう国民全体で「誰を助けるべきか」という議論をしなければなりません。
 そもそもWHOが海外での移植を止めるようにという方向へ持って行こうとしているのは、先進国による事実上の臓器売買を避けるためという狙いがあるようです。
 臓器売買というととても凶悪な人権上の犯罪という気がしますが、何もそういう犯罪を例に挙げなくとも海外移植をするというのは、その国で本来助かるはずだった別の人を後回しにするという事なので、状況だけ見れば命を金で買っているというのと似たような状況になっています。
 全てが何の問題も無く合法的に行われていたとしても、例えば日本人がアメリカで臓器移植を受ければ、アメリカに住んでいるアメリカ人の移植待ちの患者がその日本人の分だけ後回しにされるわけです。
 しかし現状ではその逆であるアメリカ人が日本で移植を受けるという事は行われていない。
 個人レベルの倫理問題はともかくとして、国家間の立場として「貰うのはいいけどあげるのは嫌」というのは不公平ですよね。
 日本人がアメリカ人の臓器を貰うのはOKだが、アメリカ人が日本に来て日本人の臓器を移植するのは事実上不可能、というのは不公平です。
 公平さを保つならば日本でもアメリカ並みに移植を受けやすくするか、日本人が海外で移植を受ける事を禁止するかのどちらかしかないでしょう。
 そしてWHOは「自国民は自国の臓器で救え」という方針を打ち出そうとしているわけです。
 まぁ、公平ですよね、普通に考えたら。
 この流れは理屈で考えれば当然の結果ですし、このまま行くと日本人は臓器移植が受けられなくなり助かるものも助からなくなるので、今回の改正案は助けるためにはやむを得ない決断と言えるでしょう。

 が、これで問題が無いかと言うとそうでも無さそうです。
 先ほども書きましたが「誰を助けるべきか」という議論です。
 今回の場合、この言葉はさらに残酷な内容を含んでいます。
 要は「誰を殺して誰を生かすか」という命の選択をしろ、という事になってしまいます。
 今までは事実上、「脳死になっている人を生かして、臓器移植を必要としている人を殺す」という選択肢を選んでいたわけです。
 これが逆になり「脳死になっている人を殺して、臓器移植を必要としている人を生かす」という方向にしようというわけです。
 「殺す」とか「生かす」という言葉は非常に強い言葉ですが、現実を直視すればこういう表現はしっかりと当てはまります。
 キレイな言葉で言い換える事も出来ますが、やっている事実は変わらない。
 ここは現実を直視すべきでしょう。
 さらにエグイ言葉を使うならばこういう事になります。
 「回復の見込みの無い人間を生かしておくよりも、回復の見込みのある人間を生かしたほうが良い」
 かなり嫌な表現ですが、仕方が無いです。これが現実ですから。
 脳死になっている人から複数の臓器を取り出し、複数の人に移植をするという前提で考えれば、一人の命を犠牲にする代わりにたくさんの人を助ける事が出来るわけで、数字で考えれば移植を進めた方が有益です。
 社会全体で考えても、社会復帰の可能性が無く経済活動がプラスにならない脳死者よりも、回復すれば社会復帰をして経済などで社会貢献をしてくれる人間が増える方がプラスでしょう。
 …こういう考え方は「人の命は地球よりも重い」と考える人たちには残酷で冷淡な考え方として映るのでしょうけど。
 しかしその人たちに「では移植待っている人に対して『命を諦めろ、死ね』と言えるのか?」と問えばおそらく答えはNOでしょう。

 多くの人にとっては臓器移植は「自分とは関係の無い事」であり、深く考えると面倒だし自分の人間性にも関わるので避けて通りたい事、なのではないでしょうか。
 それでもこの問題は突然当事者になる可能性を秘めています。
 しかも面倒な事に「脳死」側になるか、「移植待ち」側になるかは「天のみぞ知る」というところ。
 ある日突然自分もしくは家族が「脳死」になったり、「移植が必要」になったりするわけです。
 そして多くの人は自分が「脳死」の側になれば「臓器移植反対」になり、「移植待ち」の側になれば「臓器移植賛成」に回るのではないでしょうか。
 「理」で考えれば臓器移植賛成の方が社会にとってはプラスのはずですが、「情」で考えるとそうもいかない。
 まして「移植のために同意をする」という条件ですから考えようによっては「自らの手で家族の死を選択する」という事になり、その決断によって一生十字架を背負うかもしれない。
 だからと言って移植を拒否すれば「あの人は回復の見込みの無い家族の命の為に、助けられる人を助けようとしなかった」などという言われ方をするかもしれない。
 他人にそう言われなくても自分自身でそういう方向に自分を責めてしまうかもしれない。
 「情」で考えると収集がつかなくなります。
 さらに酷い修羅場を考えれば、「移植待ちの患者が臓器提供を受けられずに亡くなった」場合その遺族が、たまたま近くにいた「臓器移植を拒否した脳死者」の家族に対して「お前のせいで私の家族は死んだんだ」という暴言を吐くというような事も起きるかもしれない。

 頭が痛い問題です。
 いろいろ考えて行くと、法律その物の改正も大事ですが、国民の側の理解を深めたり、社会的な同意や意識の変化の方が重要なのでしょう。
 世界的には「自国内での移植を増やす」という方向のようですし、日本もそうなって行くでしょう。
 となればまず、「自分自身で移植の拒否表示をしなかった場合は、移植を望んでいたものと見なす」という考え方を広めなければなりません。
 この考えを広めておく事で脳死になった際に家族が「私が家族を殺す決断を下した」という十字架を背負う可能性を減らす事ができるでしょう。
 「この人は拒否をしなかった」という事が「この人は心の奥で他人の為に自分を捨てる決心をしていたのだ」という風に考える事が出来るでしょう。
 逆にあらかじめ拒否をしていた人に対して「アイツは自分さえ助かれば良いと思っていた自己中心的なヤツだ」という偏見を広めないようにする必要もあります。
 同様に移植を拒否した家族に対してもそういった偏見が広まらないようにする必要があります。
 そのためには「命とは何か」という事は社会的合意によって決まるのではなく、個々人がそれぞれの価値観で決めるべきものだ、というような考え方が社会に根付いていく必要がありそうです。
 また「移植を受けた側」も「当然の権利」と考えるのでもなく、だからといって「誰かを犠牲にして生きている」と卑屈になるのでもなく、「命を受け取った」「命のリレーをしている」というような考え方をして行く方がいいでしょうし、社会全体も移植を受けた人に対してそういう考え方で接した方が良さそうです。
 当然ですが、移植を拒否し脳死状態を維持し続けようという考え方も、批難されるべきではないでしょう。
 いつか回復するかもしれない、現代医学では不可能でも医学が発展して行けばその時に回復する手段が見つかるかもしれない、という可能性に賭けているのですからその意思は尊重されるべきでしょう。
 それもまた一つの生き方です。

 それにしてもこういう問題は多くの人にとって非常に扱い難い悩みではありますが、考えようによっては極めて贅沢な悩みでもあります。
 今までの人類ならば、脳死であろうと移植が必要な患者であろうと、助けられずに死んでいたわけです。
 それが今では医学の発展により、かつてならば助けられなかった命が助かるようになったわけです。
 誰を助けるべきか、誰を犠牲にして誰を生かすべきか…
 残酷な問いではありますが、そういう問いかけが出来るようになったこと自体が幸福なのかもしれません。
 この残酷さは幸福に対する対価なのではないでしょうか。
 そしてさらに医学が発展していけば、そう遠くない未来にはこの残酷な問い自体が不要になるかもしれません。
 現在、再生医療の分野は急速に発展しています。
 30年後か50年後かはわかりませんが、人間はそのうち「移植に必要な臓器」をクローン技術などによって自由に作り出すことが出来るようになるでしょう。
 そういう時代になれば「誰を犠牲にして誰を生かすべきか」という残酷な問いは必要無くなります。
 この残酷な問いは未来永劫続くものではなく、医学が発展するまでの暫定的な問いでもあります。
 「今は不本意ながら仕方なくこういう決断をしている、しかし医学が発展すればいつかは…」そういう風に考えれば、今この瞬間の決断の重荷も少しは軽くなるのではないでしょうか。
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 どうでもいいような話なのですがここ数日、空から何かが降ってきたというニュースが一部で「珍現象」として報じられています。
 最初は石川県でオタマジャクシが地面に落ちているという事で話題になり、さらに別の場所でも同様にオタマジャクシや小魚が落ちていて、「鳥が運んできた」とか「竜巻に巻き込まれた」と諸説入り乱れ原因不明のまま。
 それだけではなく、今度は広島県でもオタマジャクシやカエルが落ちていたそうです。

 空から何かが降ってくるというのはいかにもオカルト的で珍現象なのですが、ここまで続くと別の考え方をしたくなってきます。
 つまり、「実は年がら年中こういう事は起きているのではないか」という素朴な疑問です。
 もしかしたら日本全体では毎日こういう現象が起きているのかもしれません。
 ただ、普通そういう現象を見たとしても多くの人が「何か変だな」とは思いながらもいちいち気にも止めないのではないでしょうか。
 いつも人のいるところに落ちているとは限りませんし、落ちているのが道路の上かもしれません。
 そういう時人は「何だろう?」と一瞬は思いながらも「誰かがイタズラでもしたんだろう」というような具合にあまり関心を払わず、無視しているのではないでしょうか?
 ところが今回、たまたま誰かがこの現象をマスコミに知らせた。
 そこで「珍現象」として取り上げられたので、多くの人の注目を集めた。
 そしてそのニュースを見た人が普段無視しているような現象に改めて注意を寄せた所、「こっちでも珍現象が起きているぞ」と「新発見」をしただけなのではないでしょうか。

 今回の空から降ってくるというのとは違いますが、似たような心理現象は世界中で起きているようです。
 例えばシーラカンスもその一つでしょう。
 シーラカンスが初めて「発見」された時は「生きている化石」と大騒ぎになりました。
 ところが現地の人はこの「生きている化石」の事をもっと昔から知っていたんですよね。
 現地の人にとってシーラカンスは「食べるとマズイ魚」として有名で、むしろ嫌われていたようですから。

 つまり人間というものはいつも当然のように目にしている物事に対しては、その希少性に気付かないという傾向があるようです。
 この傾向、心理的盲点とでも言いましょうか、場合によっては結構マズイ事になるケースも多そうですよね。
 組織ぐるみの不正とか、やってはいけない作業工程とか…
 普段から当然のように行っていると、その異常さや危険性に気付かないというような事に発展するケースもありそうです。
 食品の偽装とか政治腐敗などもそういう流れの中にあるのかもしれません。
 逆に、マトモだと思っている私たち自身はどこまで「マトモ」なのでしょうか?
 「当然」とか「常識」と思っているような事の中に「実は大きな間違い」が潜んでいないとは言い切れないのかもしれませんよ。

 ふと立ち止まって、「これは本当に正しいのか?」と自問してみるのも意外な発見があったり見識を広めたりする良い機会になるのではないでしょうか?
 それは不正を見つけたり危険を回避するだけでなく、新たなチャンスを生み出すきっかけになる可能性も秘めているはずです。
 改めて、普段目にしている物事に注意を払ってみれば何かとんでもない「新発見」や今まで気付かなかった「幸福」を見つける事も出来るかもしれませんよ。
 「髪はセットしてあるか」
 「ヒゲの剃り残しはないか」
 「(服の)ボタンはかけてあるか」
 「鼻毛が伸びていないか」
 …これ何だかわかりますか?
 「小学生の遠足のしおり」とかではないですよ。
 自民党の議員に選挙対策として配られた「心をつかむ!政治家マナー講座」という名前の小冊子の中身だそうです。
 こういう一般人なら誰でも知っているような最低限の身だしなみに関する項目だけで23項目もあるそうです。
 他にも冠婚葬祭対策として「スピーチはなるべく短く(中略)披露宴に場違いな政局の話などは控えたほうが印象はよさそう」「身だしなみを整え、披露宴にふさわしい礼服で出席しましょう」というような内容まであるそうです。
 …自民党の議員ってここまで酷いの?
 何かのジョークかなぁと思っていたら「何も分からないまま議員になってしまった小泉チルドレンを筆頭に、子供の頃からチヤホヤされて、親や後援会に大事にされてきた世襲議員にも、一般常識が欠けている人は少なくありません。お辞儀や握手の仕方も知らない彼らには、大いに参考になるんじゃないでしょうか」という永田町関係者の証言まであるようですし…マジ?

 あまりの情けなさに開いた口が塞がらないんですけど、どうしたらいいんでしょう。
 自民党は他にマトモな候補者とかいないんでしょうか?
 全ての自民議員がこのレベルというわけではないでしょう。
 それなりに優秀な人たちだっているはずです。
 だからこういう低レベルな人たちはごく一部だと信じたいのですが、1〜2人、もう少し多かったとしても少人数なら直接言えば済む話ですよね、こういうのは。
 面と向かって言うと角が立つというならば秘書などを通じてやんわりと忠告も出来るはず。
 それをわざわざ小冊子を配っているという事は、ひょっとして「大多数がこんな感じの人たち」なんでしょうか?
 私達日本人は「服のボタンも満足にかけられないような人たち」に政治を委ねているんですか?
 さすがに勘弁して欲しいんですけど…
 まぁ全員が全員こんなのばかりではなく、当然マトモな人もいるはずなんですよ。
 1割ぐらいしかいないかもしれませんけど…

 あまりにも酷いので少々混乱しているのですが、とりあえず全ての原点から考え直してみましょうか。
 一般論です。
 普通、「政治家になろう」と志すような人は、きっと何か理想のようなものを思い描いているはずですよね。
 それが本当に良い社会なのか、逆に悪い社会なのかはわかりませんけど、良くも悪くも何がしかの想いを持っているはずです。
 また、具体的なイメージにはなっておらずかなり漠然としたイメージかもしれませんが、それでも何かを心に持っているはずです。
 もっと単純に「このままじゃ日本はダメになる」という簡単な危機感からかもしれませんけど、それでも一応「真剣になるだけの動機」にはなりますよね。
 仮にそういう志を持った青年「A氏」がいたとしましょう。
 A氏はこう考えるわけです。
 「私がどうにかしなくてはならない」と。
 その方法として政治家という生き方を選んだA氏は、政治家になるためには選挙で当選しなければいけないと考えます。
 その時点でA氏が優秀な人間ならば気付くはずです。
 「多くの人の支持を得るためには、マナーや身だしなみを整えなくてはならない」と。
 また、A氏が優秀ならばこういう風にも考えるはずです。
 「私の考えを多くの人に理解してもらうには、わかりやすい説明の仕方や演説の方法を学ばなければならない」と。
 民主主義の選挙なのですから、当選するためには多くの人の信頼を集めなければならない。
 A氏のように考えるのは基本であり当然だと思います。
 マナーや身だしなみ、説明や演説のようなコミュニケーション能力が無ければ、政治家になるのは難しいでしょう。
 そう考えればこれらの能力は「政治家になる前に既に身に付けているはずの能力」なわけです。
 まして「優秀な人間」ならなおさらでしょう。
 常識的に考えて、弁護士になってから法律の勉強を始める人間はいません。
 同様に、医者になってから医学の勉強を1から始める人間もいません。
 社会的に重要な職業に就く人間は、その職業に就く前に「専門家としての最低限の能力」を身に付けているものです。
 そういう能力が身に付いてから、それらの職業に就くはずです。
 …政治家は違うのでしょうか?
 身だしなみだのマナーだのという「超基本的な事」すらその職業に就いてから身に付けるものだ、と考えているようです。
 あまりにも酷い…
 一般の会社ならば、とりあえず就職した後に配置先で必要な技術を身に付けるという事はあるでしょうけど、政治家はそういう事ではないはずです。
 麻生総理が以前ハローワークにて、派遣切りにあった人に「君ねぇ、何がしたいのかわからないんじゃぁ雇う側もどうしていいかわからないよ、まず自分のやりたいことをキチンと見定めてから…」なんて説教を垂れてました。
 あの時点では「選り好みしていたら仕事なんて無いんだよ」という現実があったので、失笑を買っていましたがあの発言の趣旨自体はそう的外れでもない。
 自分のやりたいことを見定めてから、というのは大切な事です…政治家にとっても!
 自分で理想を抱いているからこそ、本来は政治家になるはずだし、強い思いがあり日本を率いるだけの力のある優秀な人間ならば、当然身だしなみだのマナーだのコミュニケーションだのといった能力は「立候補をする前の段階」で、もしくは「志を持った時点で」身に付けているはずの能力です。
 どうやら自民党の議員さんには「その程度の能力さえ無い人間」が相当な数存在するようです。
 何でそんなのが国会議員になってるんでしょう?
 こんな小冊子配って恥をかくよりも、新しくマトモな人材を探してきた方がよっぽどマシなんじゃないでしょうか?
 議員先生がこのザマでもどうにか今までやってこれたということは、それを支えていた秘書とかがいるはず。
 だったらその秘書を立候補させた方がよっぽどこの国の為になるのではないでしょうか?
 何でこんな人たちに公認を出すの?
 そこからして既におかしいんじゃないですか?

 もう一つ別の視点で原点から考えてみましょう。
 日本は民主主義国家です。
 国の行く末は議会で決まります。
 本来の民主主義では、多数派の意見だけでなく少数派の意見にも耳を傾け、全ての人がそれなりに納得の出来るような方法を話し合いで決めるのが、民主主義における基本的な考え方です。
 が、残念ながら日本の議会はそういう民主主義の基本を理解していないので「多数決で勝った方が負けた方を無条件で従える事が出来る」という「数の暴力」政治がまかり通っています。
 おかしな話ですが、事実だからまぁ仕方が無い。
 で、この「数の暴力」式政治を前提に「自分の理想としている社会」を実現するためには、どうしても「数」が必要です。
 先ほどのA氏のような人物が一人で頑張ってもほとんど無意味です。
 A氏がその理想を実現するためにはどうしても「仲間」が必要です。
 しかし、理想を同じくする人間がそんなにすぐに見つかるとは思えない。
 ならばどうするか。
 一番簡単なのは「自分の意のままになってくれるような人間」をたくさん仲間にする事ですよね。
 そうすればA氏がリーダーになってA氏の理想とする社会を作るために、議会で「数」を握れます。
 意のままになってくれる人間には当然無能な人もいるでしょうが、そこはA氏が応援演説などをしてA氏の人気やイメージで仲間を当選させます。
 有権者も議会で数を握らないとどうにもならないのはわかっているので、直接A氏に投票するわけではなくても、A氏を間接的に支持するという意味で「A氏の仲間」に投票するでしょう。
 このような議会の仕組みが出来上がってしまっている以上、一定数以上無能な人間が議会に入り込んでしまうのは避けられない事なのかもしれません。
 たまにこの「A氏の仲間」が無能なくせに自分の利害の為にA氏を裏切ったりするから、問題が余計にややこしくなったりするわけですが、元々理想とかを持っていない人たちなので、場合によっては「アメとムチ」をちらつかせるだけでコントロールできます。

 こんな風に書くと実もふたも無い気がしますが、概ねこんな感じではないでしょうか?
 アホでも何でも「一人は一人」です。
 無能であろうが何だろうが、議会での一票を持っているわけですから、志のある人間にとってもこういう「残念な人たち」というのは「必要な手駒」なわけです。
 でも、国民としては納得がいかない。
 何で服のボタンをかけているかどうかを「他人に言われないとチェックできないような人たち」を議員先生と呼ばなければいけないのか…
 本当に情けなくなります。
 で、このアホ過ぎる状態の解決法なんですけど、思い切って議員数を大幅削減してしまったらどうでしょうか?
 要は民主主義という「数の大小で国民の意見を反映させる」、という仕組みさえ生きていれば良いわけですよね。
 ならば議員の数がある一定以上さえいれば、問題は無いわけです。
 以前から国会議員の人数を削減しようという声や動きはありますが、一向に実現しておらずまたその削減数も全体の10%前後という程度です。
 先ほどから言っていますが小冊子を配らなければならないぐらいの大多数が「残念な人」レベルなわけですし、逆に言えば本当に優秀で必要な人は全体の1割ぐらいなのでしょうから、いっそ議員数を9割ぐらい削減してしまったらどうでしょうか?
 さすがに9割も削ると、優秀な人ばかりにはなるでしょうが議会運営にギリギリの人数になりそうですし、ギリギリの人数だと後継者が育たない可能性も出てきます。
 ならば少し譲歩して75パーセントの削減でどうでしょう?
 議員の数を現在の4分の1にするんです。
 実際に現役で動ける優秀な人はその半分ぐらいで、残りの半分は次の世代の後継者候補、というような割合です。
 これでも現在いるであろう10パーセントぐらいの優秀な人たちはちゃんと残る計算になります。
 議員総数も180人(優秀な人90人+後継者候補90人)ぐらいでしょうか。
 とりあえず民意の反映という面では問題は無さそうですよね。
 とはいえ、議員の人数を4分の1まで削減してしまうと、仕事量は4倍に増えてしまうでしょう。
 それでは議会の運営に支障が出る可能性があります。
 そこで解決案その2。
 「歳費と公設秘書の数を4倍にする」というのはどうでしょう?
 議員の人数を4分の1にしたので歳費と公設秘書の人数を4倍にしたところで、かかる費用は変わりません。
 議員がどんなに優秀であっても、個人で出来る仕事の量は限られているはずです。
 多くの仕事をこなしているという事は、それだけ多くの仕事を「秘書と共にこなしている」はずです。
 もっと極端に言えば、議員は「秘書が持ってくるアイデアに対してイエスかノーかの決断をしているだけ」という可能性もありますし、またそういう仕事のやり方だってあるでしょう。
 仕事の多くをあらかじめ秘書にわかりやすくまとめてもらっておいて、議員はその小さくまとまった資料などを基に判断を下していく。
 そういう風にやれば、議員の数が大幅に減った所でその分秘書の数を増やせれば同量の仕事がこなせるのではないでしょうか?
 というか、そもそも議員は「議会に出ている全ての議案に対してイエスかノーかの意思表示」をしているはずです。
 という事は当然全ての議案に対する正確な理解が要求されているはずから仕事量は変わらないかも。
 もっとも現在の仕事の仕方はおそらく「党の方針はこうです」という連絡が来て、それにしたがっているだけだと思いますが。
 でも、この「党の方針」だって誰かが決めているのでしょうし、その決断を下している人は「自分で1から全てをこなしている」のではなく秘書など誰かが「わかりやすくまとめてくれた状態」に対して決断を下しているだけのはず。
 決断の数は多くなるでしょうが、「自分の理想を実現するためにこの議案は通すべきか否か」という判断基準の下で「わかりやすくまとめてくれた状態」のものに決断を下すのならば、そんなに困難な仕事量ではないはずです。
 議員立法なども政策秘書が4倍になるので、今まで通り出来るはずです。
 何よりも、無能な議員でも議員を続ける以上はその下に秘書が一定数必要ですが、無能な議員の下にいる秘書がその持っている実力の全てを発揮できているかどうかは疑問です。
 逆に優秀な議員は、もっとたくさんの秘書がいればもっとたくさんの仕事がこなせるはずだ、と考えているでしょう。
 議員の数を大幅に削減し、余った秘書を優秀な議員の下に回した方が、より多くの仕事をこなす事が出来るのではないでしょうか?
 また、総議員数が多いからこそ「無能な駒」が必要になり、その結果「世襲」でも無能でも数合わせになれば何でも良い、という考えから「世襲問題」が発生する温床になりますが、総議員数が少なくなればそういう「無駄なイス」を維持する必要もなくなるし、むしろ優秀な人を集めるために無能な人を減らして行く方向に動くでしょう。
 …本当に優秀なら、世襲であっても秘書などを経由してから実力で議員になるでしょうし。

 議員の総数を大幅に減らす事で優秀な議員だけを残し、議員一人当たりの秘書の数を大幅に増やす事でこなせる仕事量を増やす。
 そうする事で優秀な議員に優れた判断を数多くこなしてもらう事が出来、結果として社会が良くなっていくのではないでしょうか?
 「無駄な駒」を減らせば、優秀な人たちばかりになるので意思の疎通も容易になるでしょうし、少人数の方が話し合いもスムーズに進みます。
 また「無駄な駒」たちの裏切りや政界の権力争いも今よりも減るのではないでしょうか?
 少数精鋭になると権力争いが激化する恐れもありますが、人数が少なければ切り崩しなどを抑えるための手間も少なくて済むので、派閥争いのような政治力学に費やされていた無駄なエネルギーを大幅に減らす事も出来るはずです。
 少なくとも「小学生の遠足のしおり」のような小冊子を配る必要性は無くなるのではないでしょうか。
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 もうずいぶん前になりますが、昨年の8月に当ブログで「トヨタの労働者はトヨタ車を買えるのだろうか」という記事を書きました。
 内容を大雑把に要約すると、あの当時(リーマンショック前で派遣切りが騒がれる前)経団連のエライ人たちが「日本の景気はものすごく良くなっているのに、何でみんな物を買わないんだ?」という実態を反映していない発言をしていたので、それに対して「景気が良いのに給料を増やさないから、消費者は金を使いたくても使えないんだ」という反論を少々過激な文章で書いたものです。
 景気回復・内需拡大を願うならば消費者=労働者にもっと金を回せ、というのが結論でした。

 今でもその主張が根本的に間違っているとは思っていないのですが、GMの破綻原因を考えると少々複雑な気持ちです。
 直接の理由はともかく、GM破綻の遠因として「高すぎる給料や手厚すぎる社会保障費」が経営悪化の根本原因になった、と言われています。
 日本の場合は「多くの会社が経営学的に正しい事をした結果、社会全体が経済学的に困った状況になった」わけですが、逆にGMは「経済学的に正しい事をした結果、経営が立ち行かなくなってしまった」わけです。
 かつてGMは「GMにとって良い事はアメリカにとっても良い事」と言われたそうですが、同時にどこかで「アメリカにとって良い事はGMにとっても良い事」と考えていたのかもしれません。
 労働者に対して高い賃金や手厚い社会保障をする事が間違っているとは思いません。
 ただ、それが行き過ぎた…
 アメリカは日本と違って「国民皆保険制度」ではありません。
 そのため医療費の個人負担は日本よりも遥かに高額です。
 しかしGMの社員や元社員は医療費などをGMが全額負担してくれていたので、事実上医療費は無料だったそうです。
 また退職後の年金もかなりの金額だったとか。
 社員の年収が1200万円だった、という報道もありました。
 労働者にとっては「とても良い会社」だったと言えるでしょう。
 当然その労働者にとって良い環境を作る費用負担はGMという会社に回されるわけですけど…
 GMに関しては「ミニ国家」を目指していた、などという報道もありました。
 確かに医療費などの社会保障制度から見れば「アメリカ」という国の中に「GM」というもう一つの国があり、そこに住んでいる「GM人」はアメリカの社会保障+GMの社会保障という二重の社会保障を受けていた、という風にも見えます。
 そしてその手厚い社会保障や高額の賃金・年金は当然「貪欲な消費=内需の拡大」となってアメリカ経済を潤していたはずです。
 世界にアメリカという国しかなければ、GMの経営方針はアメリカ経済も潤す一石二鳥の良い方法だったのかもしれません。
 が、当然世界はアメリカだけではない。
 理由は様々にありますが、GMはその社会保障費の負担の影響もあって徐々に経営難に陥り、結果現在に至る。

 社会全体にお金を回す事で経済を活性化させていたであろうGM方式が破れ、トヨタのような自分の所にお金を溜め込み労働者にお金を回さない会社が生き残ってしまいました。
 労働者にお金を回さない会社ばかりになれば、ここ数年の日本のように「好景気なのに実感が無く、いつまで経っても内需が拡大しない」という社会になります。
 ある意味、GMのようにお金を社員に回す企業がたくさん存在してくれないと本当の意味での景気回復は訪れないのかもしれません。
 しかし今回GMが破綻してしまった事で、社員に対する福利厚生を手厚くし過ぎると経営を圧迫し破綻する、という前例が出来たために今後福利厚生を手厚くする事に抵抗感を感じる経営者も出てくるかも知れませんん。

 変な言い方をすれば、トヨタなどは労働者を食い物にする事で生き残り、GMは逆に労働者に食い尽くされて破綻した、という表現も出来るかもしれません。
 GMは破綻しましたが、トヨタが行ってきたようなここ数年の日本方式も経済的にはいずれ限界が訪れるでしょう。
 簡単に結論を書けば、程ほどが一番、という事になります。
 社員の福利厚生などを経営に影響が出るほどには手厚くせず、かといって内需が冷え込むほどには搾取もせず、という具合に。
 ですが、この「程ほど」には明確な基準がどこにも無い。
 どの程度ならば「手厚くて」どの程度ならば「搾取のし過ぎ」なのかの判断基準がわからない。
 さらにいえば経済が国際化し、海外に安い労働者が存在する現代では企業間の競争が激しくなっており競争力を維持するためにはどうしても社員に回すお金を減らさざるをえない、という問題もあります。
 自由競争に制限を、というと問題になりますが、そもそも物価が大きく違う国同士で「自由競争を行う」という今現在当然のように行われている経済システムは、いつ国家の経済を破壊してしまうかわからないような危険性を孕んでいるのではないでしょうか。
 もちろんそうならないように各国間で色々と調整はしているのでしょうが…

 今のままの経済に対する考え方だと、この先100年ほどたった頃には人類全体の経済が破綻しているような気さえしてきます。
 今回GMが破綻しました。
 これから再建出来るかもしれませんが、以前のように高い給料を労働者に与えるのは難しくなるかもしれません。
 場合によっては日本の派遣社員のような低賃金の労働者ばかりになってしまうかも。
 アメリカ全体に労働者の賃金が下がるような動きが広まれば、アメリカも日本同様内需が小さくなって行くでしょう。
 アメリカでも日本でも消費が活性化しなければ、その分の消費をどこか別の国で行う必要があります。
 当面は中国やインドがありますが、それらの国もこのままの経済システムだと数十年後には同じ道筋を辿り内需が拡大しない、という状況になるかもしれません。
 そうやって次から次へと「新しい市場=大量消費の場所」を求めて彷徨うような経済システムは、本当に正しいのでしょうか?
 50年後・100年後の世界というものを考えると、経済学と経営学、自由競争と社会保障など、様々な意味で「根本的な社会の転換」が必要な気がしています。
 具体的なイメージが浮かんでいるわけでは無いのですが…
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 世間的にはアニメ・マンガに詳しい「アキバ系総理」のイメージのある麻生総理ですが、果たして彼は本当にアニメやマンガが好きなのでしょうか?
 マンガを読んでいるところを目撃されたり、週に何冊だかマンガ雑誌を読んでいるという話を聞く限りでは、世間一般のマトモな成人男性に比べれば「マンガが好きな人」の部類には入るのでしょう。
 が、そこにアニメやマンガに対する思い入れがあるかどうかとなると、別問題のような気がします。
 先頃「国営マンガ喫茶」などと呼ばれている「国立メディア芸術総合センター」の建設費用が予算に組み込まれてしまいました。
 117億円もつぎ込むそうで…
 実際にはこれだけでなく、毎年維持管理費やら人件費やら雑多な費用がかかってくるのでしょう。

 これ、本当に必要なんでしょうか?
 麻生総理は「アニメやマンガを世界に広めるための拠点となる施設が必要」という考えのようです。
 その考え方自体は間違ってはいないのかもしれませんが…
 それよりも他にやるべき事があるのではないでしょうか?
 何もここで他の社会問題を持ち出すつもりはありません。
 あくまでアニメ・マンガといった分野の中での話です。
 麻生総理を始め、昨今の一部の政治家や財界人の中にはアニメやマンガ、ゲームのようなサブカルチャーを重要な輸出産業の一つにしよう、という考え方があるようです。
 海外にも映画やドラマを世界中に広めて一つの基幹産業にしようという動きはあるので、サブカルチャーを産業の一つにしようという考え方自体は間違ってはいないでしょう。
 問題はその現場です。
 アニメを製作している現場の若手スタッフの平均年収は110万円なのだそうです。
 これから基幹産業にしようというアニメ産業の20代平均年収は110万円…これが労働実態です。
 完全にワーキングプアです。
 これでは若手が育たない、と業界関係者からも声が上がっています。
 この状況は昨日今日始まったものではありません。
 もう何年も前から言われてきている事で、アニメ・マンガ好きの間では「常識」です。
 それでも「好きでやってる仕事なんだからしょうがないだろう」というのが今までの一般的な考え方でした。
 「金が欲しくてやってるんじゃない、好きだからやってるんだ」という考えは情熱を生みますし、そうやって培われた情熱やハングリー精神が良い作品を生み出す原動力にもなっていたのでしょう。
 が、これを国策として輸出産業に育てようとなると話は違ってきます。
 輸出産業として育てるには常に有能な人材を一定数輩出し続ける必要があるはずです。
 それをワーキングプアのような状態にしておいていいはずが無いでしょう。
 現在だって才能があるのに「食っていけないから」という理由で辞めてしまう人が大勢いるようです。
 この業界は「才能」がとても重要なはずです。
 そういった才能をたくさん育てなければ「産業」として安定させる事は出来ません。
 しかし、現状はそうなってはいない。
 さらに、最近ではアニメの制作費を抑えるために多くの会社が製作を海外に外注しているそうです。
 中国や韓国が主な外注先のようですが…
 つまり「日本が誇る新しい文化」のつもりが、中身の多くは他国産という事態になりはじめているわけです。
 もちろん「日本のアニメ」なので「重要な部分」は日本で作られているのでしょうけど、それ以外の所は海外で作っているとか。
 もはや「日本が誇る」と言いながらもその製作技術は海外に流出済み。
 崩壊して行く日本アニメ産業を尻目に、海外の技術はドンドン上がっているのでしょう。
 このまま行けば「国立メディア芸術総合センター」が完成した頃には日本のアニメ産業は崩壊しており、国立メディア芸術総合センターで紹介するのは海外産のアニメばかりという事態も考えられます。
 「アニメ・マンガ好き」を表明しているのですから、アニメ・マンガ好きにとっては常識のはずの「労働実態の過酷さ」をご存じないとは言わせません。
 ご存じなければただのモグリです。
 この「国立メディア芸術総合センター」の建設の前にやるべき事があるのではないでしょうか。
 その証拠に現役の女性マンガ家からもこの建設に反対の声が上がっています。
 現場が「要らん」と言っている物を国家が作ってどうするのでしょうか?
 この「要らない物」の維持費の為に毎年また税金が使われていくのでしょう。
 一生懸命アニメを作っている若手のワーキングプアのアニメーターからも当然その税金を徴収するわけです。
 ますます生活が苦しくなって、本当に辞めてしまいますよ?
 自分で自分の首を絞めるようなマネをしてどうするつもりですか。

 アニメの製作現場の労働環境が苛酷なのは業界の収益構造の問題が原因でしょう。
 早くどうにかして欲しい所ではありますが、こういう事に国がしゃしゃり出て行くと余計な混乱を招くだけかもしれませんし、変に所得保障などをするとハングリー精神が培われなくなる恐れもあります。
 国家が介入すべきかどうかは議論が分かれるでしょうし、介入するにしても十分に検討し慎重に行う必要があるでしょう。

 が、だからといって「国立メディア芸術総合センター」を作ればいいというものではない。
 117億ものお金を「アニメ・マンガ振興」に使うのならばもっとマシな使い方があるはずです。
 例えば「基金」や「財団法人」のようなものを作るのはどうでしょうか。
 数年前に韓国から「韓流ブーム」が起き、韓国映画が世界中でヒットした背景には韓国が国を挙げて映画産業を振興した、という理由があったそうです。
 その振興方法は「国立メディア芸術総合センター」を作るというものではありません。
 良質な映画を作る時にその制作費などを提供する、という方法のようです。
 ならば、日本での「アニメ・マンガ振興」も要らない建物を作るのではなく、こういう資金援助というスタイルの方がいいのではないでしょうか。
 基金や財団を作り、良質な作品を作る資金的な援助をすればいいんです。
 例えば新人発掘のためにコンペを開くというのはどうでしょう。
 審査員にこの業界で長年経験を積んでいるプロデューサーや監督、評論家などを招き、新人でもベテランでも応募できるコンペを開く。
 「絵コンテ」や「脚本」で応募を受け付けて、優秀な作品にはその制作費を出すという方式にするとか。
 さらに言えば映画などは「政策委員会方式」を執ってているケースが多いようですから、この政策委員会に出資という形で参加する。(最近は「ファンド」形式で制作費の出資者を募るケースもあるようです)
 作品が成功を収めれば、この「基金や財団」にも収益が還元されます。
 その費用でまた別の作品に出資する。
 そうやって繰り返していけば、より多くの良質な作品を世に送り出す事に直接役立てられるわけです。
 また、アニメやマンガ、ゲームを製作している会社が発行する債券などをこれらの「基金」で積極的に買い取っていく、という方法もあるでしょう。
 出資ほど直接的ではありませんが、やはりそれなりの収益を上げつつ業界の振興に繋がるはずです。

 会社や業界に金が回っても、現場スタッフの労働環境の改善に繋がるかどうかはわかりません。
 しかし、業界全体にお金が回るようになり、製作作品数が増えれば、それだけ若手にはチャンスが増える事になり、創作意欲を刺激できるかもしれません。
 特にコンペの回数が増やせれば、無名の若手作家にとっては世に出るチャンスが増えるわけですから、才能の発掘という面では効果的なのではないでしょうか。
 少なくとも「要らない建物」を作るよりは遥かに効果があるはずです。

 アニメやマンガを「文化振興」という形で応援するというのは、今現在も文化庁などがひっそりと行っているようですが、今回の117億という金額はその比ではないでしょう。
 これだけの金額を用意し、国家が動くのならば業界の利害関係や収益構造の問題を乗り越えた「新しいやり方」だって作れそうなものです。
 著作権による利益が現場のスタッフに還元されるような仕組みが出来れば、ワーキングプア状態も改善される可能性があります。
 出資だと著作権や主な収益が「基金」側に移ってしまうという危険がありそうですが、債権による制作費の貸し出しという形ならば「基金」側は一定の利益を上げつつ、製作サイドにもお金が回る仕組みが作れるのではないでしょうか。
 債権が不良債権化しないように、貸し出す際の判断(その作品がヒットするかどうか)を業界関係者に任せ、審査自体もオープンにすれば業界全体が活性化すると思うのですが。

 本当にマンガやアニメが好きで、かつ政治家らしい戦略的視野があるのならば「要らない建物」を作るよりも、こういうアイデアの方が先に出てくるはず。
 「国営マンガ喫茶を作るのは、総理がアニメやマンガが好きだからだ」と指摘する人がいますが、ハコモノを作りゼネコンを潤わせ、維持管理費に税金をつぎ込み、官僚の天下り先にもなるような代物を作るのは政治家のいつもの悪習ではないですか。
 それを「アニメ・マンガが好きだから」という理由で説明するのは「アニメ・マンガ好き」に対する冒涜です。
 アニメ・マンガが好きだから「国立メディア芸術総合センター」を作るのではなく、ただ単にいつもの政治家や官僚の悪巧みだから作っているだけです。
 アニメやマンガはその理由として使われているだけでしょう。
 そしてアニメやマンガだけでなく医療や介護、労働などもっともらしい理由を付けて「要らない建物」を作るのもいつもの手口です。
 「国営マンガ喫茶」だから騒ぐのではなくもっと根本的に、

税金の無駄遣いはするな

 と指摘するべき話です。
 アニメやマンガを口実にすると麻生総理本人の問題しか追及できませんが、また無駄な物を作っているという視点で責めれば、長年続いている「自民党と政府の悪い体質が全く変わっていない」という方向に議論を持っていけるでしょう。
 アニメやマンガといった気を引きやすい単語だからではなく、もっと根本的な問題として捉えて議論した方が良いのではないでしょうか?
 ついでに言えば「得意分野」のはずの「アニメ・マンガ」の領域で、現場にすら「要らない」と言われるような政策しか出せないというのは「無能」の証明だと思うのですが…
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 北方領土の返還では「2島返還」「4島返還」「3.5島返還」など色々な意見が出ていますが、北方領土がすんなり返還されたとして、今現在北方領土に住んでいるロシア人達はどうなるのでしょうか?
 北方領土問題で話題になるのは漁業権や資源の問題が中心で、実際に今住んでいる人たちに対する言及は聞いた事が無いのですが…
 まだ返還されるかどうかわからない状態なのにそういう話題を出す事は、ロシアの機嫌を損ねて返還交渉が後退するかもしれない、という不安があるのかもしれませんが、この問題結構重要ですよね。

 領土の返還というと沖縄とか香港をイメージしますが、これらの例と北方領土では根本的に違う問題があると思うのです。
 沖縄も香港も、そこに住んでいた人たちは返還される国と元々同じ国の人たちです。
 文化や風習が若干違うかもしれませんが、とりあえず言葉は通じる状態。
 ですが、北方領土に住んでいるには「ロシア語を話すロシア人」です。
 多分、日本語は通じません。
 この人たちは返還後、一体どうなるのでしょうか?
 ロシア人なんだからロシア本土に行け、とか言うつもりでしょうか。
 北方領土の占領が10年ぐらいならそれでも良かったのかもしれませんが、もう既にかなりの年月が流れてしまっています。
 詳しい事はわかりませんが、北方領土が占領された直後に20歳ぐらいで入植した人たちがいたとして、もうすでにその人たちはかなりの高齢でしょう。
 人によっては孫やひ孫もいるかもしれない。
 いくら北方領土が「元々日本領だ」と主張しても、その孫やひ孫からすれば「ここは爺さんの代から住んでいる私達の故郷だ」という事になるでしょう。
 そういう人たちに対して「故郷を捨てて出て行け」というのは酷なのではないでしょうか。
 「出て行け」と言えないのならばそのまま住み続けてもらう事になるのでしょうけど、そうなるとそれはそれで問題が出てきそうですよね。
 まず、国籍はどうするのか。
 日本人になるのかロシア人になるのか、それとも二重国籍か。
 全員がそのまま日本国籍を取ってくれるのならばまだいいですが、当然それを拒否する人も出て来るでしょう。
 その人たちは「外国人扱い」でいいんでしょうか?
 外国人扱いだとビザとかはどうなるのでしょう。
 ロシア本土との行き来の際にはその度毎にパスポートを提示したりする事になるのでしょうか。
 親戚がロシア本土に住んでいる人もいるでしょうし、かなり面倒ですよね。
 もっと身近な所では行政をどうするのか、という問題があります。
 「北方領土は日本領なのだから法律なども日本語で施行」でいいのでしょうか?
 行政で働く人は誰でしょう?
 ロシア人でしょうか、日本人でしょうか。
 市長などはどうします?
 住民のほとんどがロシア人という状況で日本人が渡っていって市長として統治出来るのでしょうか?
 それともロシア人にそのままやってもらうのですか?
 そうなると「外国人の参政権」の問題が…
 変な対応をすると今度は「在日韓国・朝鮮人」との扱いの違いが問題になりそうですよね。

 国籍も安易に与えると、ロシア本土から「ロシア国籍よりも日本国籍の方が良い」と考える人たちが大挙して押し寄せてくるかも…
 「北方領土は特別な事情があるから…」と出入国のチェックで特例を設けると、それを使って何か犯罪を企む人が出てくるかもしれない。
 他にも税制の違いや社会保障の違いなどで混乱は起こりそうです。
 問題山積なのではないでしょうか。
 上に挙げた例はすんなりと返還された場合に起きそうな問題です。
 すんなりと行ってもこれだけの問題がある。
 それなのにこういった問題に一切言及しないまま、というのは正しい対応なのでしょうか。
 デリケートな問題だから、と避けたくなるのもわかりますが、こういう問題を避けることで返って現地のロシア人の不安を煽ってしまい「返還反対」という運動に繋がる恐れは無いのでしょうか?
 一番不安を感じているのは現地の北方領土に住むロシア人、ですよね。
 香港の返還の際にも香港人たちは「中国になったら何がどうなるかわからない」と海外に移住する人が出ていたようです。
 ましてロシア人は日本語が使えない…
 それだけでも現地の人の不安はかなり高まるのではないでしょうか。
 国籍はどうなる?本土の親戚との付き合いは?社会のシステムも違うし法律もわからないぞ?その上言葉も通じないぞ?では生きた心地もしないでしょう。
 その結果「政府同士は勝手に返還とか言ってるけど、私達は認めないぞ」と不安から反対運動が起きてしまうかもしれない。
 日本に対しては「自分の人生がどうなるのかわからないのに、日本に返還されてたまるか」という形で。
 ロシア政府に対しても「自国民を見捨てるな」というような形で反対運動になるかもしれません。
 そして現地のそういう動きがロシア本土に伝わって「返還反対」という世論が形成されると、北方領土問題は別の形で暗礁に乗り上げるかも…

 北方領土の返還では現地の人の気持ちも無視できないのではないでしょうか?
 そこでせめて心理的な距離を縮めようという考え方も出てくるのでしょうけど、一歩間違えると「ムネオハウス」みたいな問題に発展してしまうかもしれない。
 「ムネオハウス」って「返還後を睨んで心理的距離を縮める」という意味では結構有意義なやりかただったのかもしれませんよね。
 しかし、必要以上に北方領土に投資をして発展させると今度はロシア側が惜しくなって「やっぱり返還しない」なんて事になるかもしれませんし…

 政府レベルの話し合いは重要ですが、現地の人を無視したようなやり方で本当に大丈夫なんでしょうか?
 むしろ現地の人を「洗脳(言葉は悪いですが…)」して、現地の人から積極的に「日本領になりたい」と望んでもらえるような状況にもっていけたら理想なのかもしれませんけど。
 返還すら決まっていない状態ではこういう議論もすべきではない、という事なのでしょうか。

 返還されるとしてもいきなり「じゃあ明日返すね」というような事になるとは当然思えません。
 おそらくかなり長い年月を置いた上での返還、という形になるのでしょう。
 例えば「30年後に返還します」というように。
 細かい問題は返還される事が決まってから実際に返ってくるまでの間に考えれば良い、という事なのでしょうか。
 でもその頃には現地のロシア人はさらに世代交代が進み、「先祖代々の土地」という事で郷土愛が強くなってますよね。
 大丈夫かなぁ…
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 民主党の党首が鳩山由紀夫党首という事になりました。
 これで政権交代が実現すれば「鳩山総理」が誕生するのでしょう。
 …これで本当に良いんでしょうか?
 民主党がダメと言いたいわけではありません。
 鳩山由紀夫という人間がダメだとも思いません。
 民主主義を正常に機能させるためには政権交代はすべきだと思います。

 何が疑問かというと、ここ最近の総理大臣の家柄です。
 皆さんご存知のように現在「世襲議員」が問題になっています。
 まぁ色々と言われています。
 私も世襲そのものには問題が多々あるとは思いますが、今回は世襲による弊害そのものは置いておきます。
 小泉元総理以降、安倍、福田、麻生と全員世襲議員です。
 世襲だから即ダメだというのも早計でしょう。
 今の所悪弊の方が目立ちますが、もしかしたら優秀な世襲議員というのも存在するかもしれませんし。
 ただ、小泉は除いて、安倍・福田・麻生についで鳩山となるとさすがに気色が悪い。
 気付いていますか?
 鳩山を含めたこの四名の共通点に。

 世襲議員と一口に言ってもそれぞれに違いがあるでしょう。
 ここではとりあえず、世襲をランク付けしてみたいと思います。
 ・世襲レベル「下」…親族が政治家(地方議員や市長・知事など、地方政治の家柄)
 ・世襲レベル「中」…親族が国会議員
 ・世襲レベル「上」…親族が「大臣」経験者
 ・世襲レベル「特上」…親族が「総理大臣」経験者
 もうわかりますよね。
 小泉までは世襲レベル「上」なのですが、それ以降は全員「特上」なんですよ。
 ・安倍晋三(第56・57代内閣総理大臣岸信介の孫)
 ・福田康夫(第67代内閣総理大臣福田赳夫の長男)
 ・麻生太郎(第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣の孫)
 となっており、
 ・鳩山由紀夫(第52・53・54代内閣総理大臣鳩山一郎の孫)
 となります。
 つまり、ここで政権交代をして鳩山総理誕生となると「四代続けて元総理大臣の家族が総理大臣になる」という事になります。
 「世襲議員」どころか「世襲総理」です。
 コレ、正常な民主主義?

 単なる確率論ですが、単純に考えれば「日本人が総理大臣になれる確率」は1億2千万分の1です。
 少し広げて「家族が総理大臣になる確率」は平均的な家族の人数が4人だとすると1億2千万を4で割って3千万分の1です。
 もちろん個人個人能力には差がありますから、優秀な人なら100分の1ぐらいかもしれませんし、無能な人間なら1兆分の1ぐらいかもしれません。
 が、人間の能力の差などたくさん集めて平均化すればそんなに大きく違うものでもないでしょう。
 1万人集めて、優秀な人上位100人だけを見れば、その差などほとんど無いに等しいはず。
 優秀な人間がリーダーになれる社会システムが確立されているのならば3千万分の1という数字はさほどおかしなものでもないでしょう。
 しかし、この3千万分の1が一つの家族の中で起きるとすると、その確率は跳ね上がります。
 これまた単純計算すれば「(3千万×3千万)分の1」という数字です。
 90兆分の1…でしょうか?
 とりあえず天文学的な数字です。
 ところがこれで終わりません。
 この天文学的数値がすでに3代続いています。
 「(90兆×90兆×90兆)分の1」でしょうか?
 「729×10の42乗」…かな?
 普通の数字に直すと729000000000000000000000000000000000000000000分の1です。
 これが現時点で起きている現象の確率です。
 鳩山政権が誕生すると、ここにもう一回90兆分の1が掛け算される事になります。
 …すいません、もう計算するのイヤです。
 とりあえず、四代続けて「総理が世襲」は超異常事態です。
 あまりにも異常すぎる確率なので、どの程度異常なのかさっぱり見当も付きませんが、とにかく異常事態というのは上の数字を見ればわかりますよね。
 確率で考えるとかなりおかしな状態なんです。

 能力には個人差があるし、政治を確率で考えるのもおかしいのかもしれません。
 そもそもこの確率の考え方自体私の勘違いかもしれませんし…
 ただ、さすがに「四代続けて総理の一族が総理」というのは民主主義の原則に反しているのではないでしょうか?
 実力主義のアメリカでさえ、先の選挙でヒラリークリントンが立候補した際に「二つの家族の持ち回りで大統領が決まるのはおかしい」という声が出たほどです。(ブッシュ父→クリントン夫→ブッシュ息子→クリントン妻、はおかしいという意見ですね)
 いくら実力があったとしても、同じ一族で権力の座が独占されるのは民主主義ではおかしな事なんです。
 それが日本では起ころうとしている。
 これ「王政」に近いですよね。
 四代世襲総理が続くといっても、アメリカの場合と違い日本では直接4家が親戚同士というわけではありません。
 が、このまま続くと「総理大臣になる人間は総理大臣の親戚でなければならない」という状況が常態化しそうです。
 歴代の総理大臣の子孫が持ち回りで総理大臣になる、というような事態になればもはや民主主義ではないでしょう。
 それが今まさに始まっているわけです。
 これが自民党の中だけならばまだしも、政権交代する野党も同じというのはどうなのでしょう?
 次の選挙は「総理大臣の孫」VS「総理大臣の孫」なわけですよ…
 どっちを選んでも「世襲総理」で他の選択肢が無い。
 コレ、正常ですか?

 最近は世襲制限をしようという声も出てきています。

 鳩山由紀夫という人は狭い意味では世襲議員と言えるかどうか微妙です。
 世襲とは「看板・カバン・地盤」を受け継ぐ事だと言われています。
 鳩山由紀夫党首の場合、看板(知名度)は仕方が無いです。
 これを「受け継がない」という方法はありませんから。
 例え姓名を変えたとしても「総理の孫」という血縁からは逃げられません。
 なので「看板」に関しては文句を言っても仕方がない。
 カバン(資金)は受け継いでいる、と言えるでしょうか?
 確かに彼は莫大な遺産を受け継いでいます。
 が、それはキチンと相続税を払って受け継いだ「個人資産」です。
 今現在問題視されている「カバン」は資金管理団体という「個人資産の外にある、政治家個人が自由に使える活動資金」の事なので、カバンは「個人資産」には含まれていません。
 このカバンの問題点の一つは「個人資産ではないので相続税の対象にならない」という点です。
 脱法行為に近いでしょう。
 「個人資産」はあくまで「自分の親や先祖が自分個人のために残してくれたお金」なので、カバンの範囲では無いでしょう。
 「個人資産の相続禁止」は明らかに憲法違反ですしね。
 最後に「地盤」…選挙区の事です。
 鳩山由紀夫党首の選挙区は北海道だったでしょうか?
 確か「奥さんの実家があるから」とかそんな理由らしいのですが、おそらく選挙区は継いでいないと思います。
 仮に継いでいるとしたら「先に政治家になった弟の方」でしょうし。
 広い意味では鳩山党首は世襲議員です。
 「血」は継いでますから。
 しかし、今言われている「世襲」とは微妙に異なる気もします。

 本人の能力として「総理の器」かどうかはまだわかりません。
 消費税に関する議論を避けたのも気になります。
 この時期消費税に関する議論をして、世論の支持を失うのを恐れたという気持ちは理解できます。
 ここで消費税を声高に叫ぶ事で支持率が下がり政権交代が遠退いては本末転倒。
 しかし、ここでそれを避けるのは「選挙前には甘い事を言っておいて当選したら好き勝手にやる」という旧来の自民党政治と同じです。
 また、避けたい気持ちはわかりますが、そこで避けてしまうという姿勢も気になります。
 組織のリーダーは常に「最悪の事態」を想定し、それを避けるようにするのが大切なはずですが、議論さえ避けるというのは「最悪の事態」を想定したくないという事かもしれません。
 となると、危機管理能力が心配。
 プラス要素ももちろんあります。
 まず、自分の祖父が作った自民党という政党を「これではダメだ」と飛び出している所を見れば「気骨」はありそうです。
 そして以前にも民主党党首をしているので、実力が無いと言うわけでもない。
 麻生総理よりはマシである可能性は非常に高いでしょう。
 鳩山由紀夫個人に総理の資格が無いとは現在の所、断言できません。

 世論の動向も気になります。
 少なくとも世論では「岡田副代表」の方が人気があったようですし、それが「世襲に対する国民の拒否感」が原因であった場合、次の選挙ではマイナスに作用する可能性はあります。
 「麻生」と「鳩山」どちらが総理に相応しいか、という世論調査ではとりあえず「鳩山」に軍配が上がったようですが、「世襲総理が続いて良いのか?」という争点が出てきたらわかりません。
 まぁ「3代続けて世襲総理」にした自民党にはそれを言う資格はありませんけど、それでも「世襲総理」が続くのは気持ちが悪い。
 鳩山総理が絶対ダメとは言いませんが、せめて間に誰か別の人を総理にして欲しいところです。
 連立政権で「社民党党首を総理に」でも良いので、「四連続世襲総理」だけは避けて欲しいのです。
 「貴族の持ち回りによる王政」じゃあるまいし、この状態は民主主義国家として笑いものではないでしょうか?
 「日本の政治は中世に戻った」では対外的にあまりにも…
 民主主義が正常に機能している事を証明するためにも「総理大臣が家族にいない人」を総理にして欲しい所です。
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 2009年5月15日に「家電エコポイント制度」というのが始まるそうです。
 ある一定の基準を満たしたエアコン・冷蔵庫・地上波デジタルテレビを買うと「エコポイント」というのがもらえるそうなんです。
 政府が景気対策とエコ推進の一石二鳥を狙って始めた素晴らしい制度です。
 この制度の何がスゴイか。
 ・売値が店舗ごとに違うため不公平感が出ないよう、商品の大きさなどによって一律にポイントが与えられる。
 ・買い替えを促進するため古い製品を下取りに出す事でもポイントがもらえる。
 ・制度開始直前なのに、ポイントの付与方法が決まっていない。
 ・ポイントの付与は「商品券」や「地域振興券」を予定しているらしいが、定かではない。
 ・商品を買ったことを証明する書類も決定していないようなので、領収書や保証書など買った時に貰った書類を片っ端から保存しなければならない。
 …ねっ!?スゴイでしょ、こんな制度今まで見た事無いですよ。
 開始直前なのに肝心なシステムが何一つハッキリしていないんですから。
 そのせいでポイントを貰う側はどの書類を保存しておけば良いのかわからない上に、そのポイントで何が出来るかもわからないんです。
 普通に現金や商品券で支給できれば簡単です。
 でも、目的がエコなので、やはりそれに合致していないとおかしな事になりそうですよね。
 エコのために家電を省エネに切り替えて、貰ったポイントで「環境に悪そうな中古で燃費の悪い自動車」などを買われた日には本末転倒です。
 では、エコ商品しか使えないようにすれば良いのか、というとそれも難しそう。
 まずエコ商品の線引きができない。
 この制度発足に伴い作られた基準はエアコン・冷蔵庫・地デジテレビの三種のみ。
 この商品の中から買いましょうとか言われても困りますよね。
 例えば一人暮らしを1ルームマンションでしている人が「よし、これを機にエコに換えよう」とエアコン・冷蔵庫・地デジテレビの三種を全て買い換えたとして、その後付与されたポイントで「さぁ、この三つの中から好きなものを買うときに役立ててください」とか言われても、ねぇ?
 1ルームにエアコンや冷蔵庫やテレビは2台もいらねぇよ、って事になりますよね。
 このエコポイント制度、通販とかだとどうなるのかもわからないし…
 それに何だかセコイ事を考える人もでてきそうですよね。
 エコポイント狙いで量販店で対象商品をちょっと安めに買い、その商品を未開封のままネットオークションに出す。
 落札価格を自分が買った額とほぼ同じにしておき、領収書だけ抜き取る。
 で、エコポイントが付与され始めたらその領収書を証拠に「ポイントをよこせ」と迫る。
 かなり面倒ですが、制度がいい加減なので出来てしまうかもしれない。
 始まる前に必要書類を指定していなかったので「領収書だけじゃダメだなんて知らなかった」と言い張れば無理が通ってしまうかもしれない。
 他にも業者サイドが何かやらかすかもしれないし…
 制度が確立されないのに「超テキトーに見切り発車」した理由は「買い控えなどの影響を恐れて止むを得ず…」という事ですが、明らかに無理のあるスタート。
 混乱する可能性は極めて高い。

 さらに素晴らしい制度が存在しています。
 環境省が単独で推進している「エコ・アクション・ポイントモデル事業」です。
 この制度は既に開始されているらしく(本当かよ?)なかなか面白い制度となっております。
 この「エコ・アクション・ポイントモデル事業」とは次のようなシステムのようです。
 ・政府が定めた基準に適合した環境に優しい商品を買うとエコ・アクション・ポイントが貰える。
 ・商品を買うだけでなく、特定のイベントなどに参加してもエコ・アクション・ポイントが貰える。
 ・貰ったエコ・アクション・ポイントは「何か」に使えるらしい。この「何か」は地域通貨だったり割引制度だったりするようですが、それぞれがバラバラにやっているようなので正確なところはよくわからない。
 ねっ!?スゴイでしょ。
 何だかよくわからないけど、とりあえず何かやってるみたいなんです。
 ところでこのエコ・アクション・ポイントモデル事業、何かに似てると思いませんか?
 もちろん似ているのは「家電エコポイント制度」の事です。
 エコ・アクション・ポイントの方にも「家電」に関する制度があるので、制度は重複しています。
 そして名前も似ています。
 「エコ・ポイント」と「エコ・アクション・ポイント」ですからね。
 パッと見て違いがわからなくても仕方が無いです。
 どちらも知名度低いですし…

 さらに日本政府のスゴイところを教えてあげます。
 この二つの制度、もちろん互換性が…無いんです。
 とてもよく似た名前のとてもよく似た制度なんですけど、完全に別物なんです。
 スゴイでしょ?
 環境省は余程腹に据えかねたのか「エコ・アクション・ポイントの公式サイト(←クリック)」のトップページで堂々と「『エコポイントの活用によるグリーン家電普及促進事業』については、
本モデル事業とは異なります。」と大書しております。
 ハッキリ書いてくれないと間違えちゃいますもんね。
 環境省は親切だ。ちゃんと誤解を招かないようにしている。
 きっと環境省は怒ってるんでしょうね。
 メンツ丸潰れですから。
 自分達がすでにポイント制度を始めているのに、どこかの誰かが勝手に類似の制度を作り、それを大きく宣伝しているわけですし…

 何と言うか、無駄の多い人たちだなぁホント。
 何がしたかったんだろう?
 既に似たような制度があるのならそれを拡充すればいいのに、わざわざ未完成のわけのわからない制度を新たに導入するわけですから。
 開始直前なのに「ポイントの付与方法不明・使用目的未確定」って…
 こんな状態で「さぁ皆さんエコ活動にご協力を!」って…

 アホですか?

 えーっと…とりあえずエコの為に何かをするのはとても大切な事です。
 このエコポイント制度のエコポイントはもしかしたら「麻生太郎の肩たたき券」になってしまうかもしれませんし、使用目的が不明なので「自民党のノベルティグッズショップだけで使える商品券」になってしまうかもしれませんが、この制度を機に買い替えてみるのも「一興」かもしれません。
 やる気だけが空回りしているような制度ですが、その趣旨は間違っていないので「政府がエコ意識を持った事」だけはキチンと評価してあげましょう。

 あぁ、そうだ忘れないうちに書いておこう。
 この「エコポイント制度」のサイトには「国会審議の結果、エコポイントを付与しないこともございますので、あらかじめご承知おきください。」という一文が入っていました。
 エコポイントが貰えなくても怒っちゃダメですよ。
 …ここまで来ると詐欺に近いな。

 このエコポイント制度の詳細は6月になると発表されるらしいですよ。
 ハッキリするまで待った方が賢明かもしれませんね。
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小沢代表辞任表明

 民主党の小沢代表が辞任表明をしました。
 今さら遅い、という気もしますが…
 あまりにも遅過ぎたためか、麻生総理から「何の理由で辞めるのか、よく分からない」とも言われているが安倍や福田という「理由もいわずに総理を投げ出した」前例のある政党の人間には言われたくは無いだろう。
 理由は単純に「イメージが悪くなって選挙に勝てないから」だと思う。
 もちろんイメージが悪くなった原因である献金問題も関係しているだろうけど、直接の原因は世論調査による支持率の低下ではないだろうか。
 要するに「選挙に勝てない」という理由なわけで、この辺の事情は自民党と同じなのだろう。

 さて、結局あの献金問題もわけがわからないままウヤムヤになり始めてしまっている。
 小沢代表だけでなく現役閣僚にまで飛び火したのになぜかウヤムヤ。
 それだけに当初から囁かれていた「陰謀説」が説得力を持って来てしまっているような感じもする。
 報道によると一部識者の間からは「あの捜査は問題があり、その問題がある捜査が原因で辞任をするのは民主主義の原則に反するから、民主主義を守るためには絶対辞めてはならない」というような意見もあるようだ。
 小沢代表自身も最初から「違法性は無い」と主張を続けている。
 そのため余計に「ならばなぜ辞めるのだ?」という意見が「政界の周辺」からは出てきている。
 こういう報道に接しているとわけがわからなくなってくるので、一歩引いてみよう。

 そもそもなぜ小沢代表が辞任するのかと言えば「支持率が下がったから」だろう。
 なぜ支持率が下がったかと言えば「献金問題」があったからだ。
 しかし献金問題自体に色々と疑問があるわけだ。
 献金自体は合法であるとか、捜査のやり方に問題があるとか…
 では、そんな疑惑のあるもしかしたらでっち上げのインチキかもしれない「献金問題」でなぜ支持率が下がるのか、という事になる。
 つまるところ「国民が理解していないから支持率が下がった」という事になりはしないだろうか?
 政界の周辺の考え方でいくなら「支持率が下がる事自体がおかしい」という事になってしまう。
 もちろん支持率が下がらなければ「小沢辞任」は無かった、という事になる。
 いわゆる「識者」達の言い分で考えるならば「小沢は悪くなく、それを理解しない国民に問題がある」という事にもなるだろう。
 国民が悪いのだろうか?
 物事の本質を理解せずただ批判ばかりしている国民には問題はありそうだ。
 が、それに文句を言って何か変わるのか?

 あの献金問題の際に小沢代表が言っていた言葉がある。
 「政治には金がかかる」と。
 国民の多くは「なぜ政治に金がかかるのか?」という疑問を抱いているわけで、そこに対する回答は少々はっきりしないものだったのだが、一つ確かに言っていた事がある。
 「大勢のスタッフを抱えているので人件費がかかる」と。
 そんなに大勢のスタッフがなぜ必要なのか、という疑問はさておき、ちょっとこの人件費を考えてみよう。
 与党の場合、政策の立案などはいざとなったら官僚を使えば良いので人材面で問題は無いだろう。
 問題は野党だ。
 野党が政策を考えるためにはどうすればいいのだろうか?
 官僚任せには出来るわけが無い。
 場合によっては官僚自身の待遇に関する事も扱うのだから、それを官僚に任せるわけにはいかない。
 もちろん「議員本人が考えやがれ」で済ませられればそれに越した事は無いが、そうは行かないだろう。
 国会議員全員が政治経済法律産業など、ありとあらゆる面において超一流の知識を持っている人たちでなおかつ現場がわかっている人間ならば何の問題も無いが、そんな人間…いるか?
 国会に、ではなく日本中探したってそんなスーパーマンみたいな人物はいないだろう。
 国を動かす方法を考えるわけだから当然それなりの水準の人材が必要だろう。
 しかも一人二人ではなく、ありとあらゆる分野の人材を幅広く集める必要がある。
 当然超一流の人材なので、それなりの給料が発生してしまうだろう。
 それだけの能力がある人たちに向かって「お国のためなのだからタダ働きしやがれ」という訳には行くまい。
 国策なのでその時だけ手伝って、というわけにもいかないだろう。
 片手まで作った政策で国家の行方を決めてもらっては困るだろうし。
 となると「超一流の人材を専任スタッフとして常時雇用」する必要があるはずだ。
 例えば大学教授レベルの人たちを常時雇用、ということになる。
 先日全く別のニュースで大学教授の給料が明かされていた。
 大体1千万クラスだそうだ。
 非常勤講師だとワーキングプア同然らしいが…
 政策と言っても多岐に渡る。
 各省庁の各分野それぞれに対応できる専門家を雇う、それだけでも年間数億という金額になりそうだ。
 しかもその人材たちも一人では仕事がはかどらないだろうから、当然助手のような人物が必要だ。
 そこまで入れるとさらに金額は膨れ上がる。
 もちろんこれとは別に「必要経費」だってかかるだろう。
 マジメに政治だけに打ち込んでいてもかなりの金額が必要そうだ。
 これら全てを政党交付金で賄えるのだろうか、という事になる。
 政党にはその他にも政党の事務スタッフの給料や家賃など、様々に経費がかかるだろうからそこまで考えるとどれぐらいの金額が必要なのかは想像できない。
 無論これは「政治家が一切悪い事をしていない」のが前提なのだが、マジメにやっても結構な額が必要になりそうなのはわかる。
 そのためには「献金」が必要なのだろう。
 国民としては「それだけのコストに見合った政治をしているのか?」という疑問があるわけだが、逆に「どれだけのコストを払えばどの程度の政治が出来るか」という基準が無い以上、この国民の疑問や不信感は永遠に無くならない。
 そしてその基準を作ることはおそらく困難だろう。
 他国と比べるのが手っ取り早いが、その国ごとに細かい事情や人件費などが異なる以上、単純な比較対照などできないはずだ。
 単純にたくさんの人材を雇えば良いアイデアが生まれる、というわけでもないだろうし、かといって「天才が一人いれば良い」という問題でもないはず。
 多角的にあらゆる事を検討するためには「結果として使わなかったデータ」も出しておく必要があるだろうし…
 そういう無駄になるかもしれない費用も、正確さを追求するためには必要だろう。
 その辺りのバランスの適正値など無いのではないだろうか。
 「政治とコスト」の天秤の適正値は「神のみぞ知る」という事になってしまうかもしれない。
 お金はいくらあっても足りないし、かといってたくさんあってもそれが全て活かされるわけでもない。
 考え始めるとかなり面倒な問題だが、こうやって考えると「お金が足りない」という事情も多少は納得できる。
 だからといって特定企業からの多額の献金に問題が無いとは言えない。
 ではどうすればいいのだろうか?

 アメリカでは政治家に対する個人献金が一般に浸透しているようだ。
 オバマ大統領はものすごい人数からちょっとずつ献金してもらう事で、歴代大統領と比べても遜色が無いほどの献金を集めていた。
 日本では出来ないのだろうか?
 実はある政治家がすでにやっているらしいのだが、結果は芳しくなかったようだ。
 わずか数人がホンのお涙程度の献金をしただけ…
 それことアルバイトでもした方が余程効率が良いという始末だった。
 日本人はケチなのだろうか?
 だが「募金」は結構集まったりする。
 決してケチというわけでもない。
 でも「献金」はしない。
 「献金」だけでなく「寄付」も少なそうだ。
 これはどういう事なのだろうか?
 何の根拠も無い仮説だが、日本人にはアメリカとは違った精神構造があるのかもしれない。
 「募金」はしても「寄付」はしない、という事。
 「募金」と「寄付」は似ているがここではあえて言葉を分ける事にした。
 ・「募金」…困っている人を助けること。
 ・「寄付」…その人物ないし団体を応援すること。
 としてみた。
 「募金」は募金箱とか義援金をイメージしてもらえばいい。
 「寄付」は教会とかNGOとかボランティア団体とか学校とかに対して行う事、と思ってもらえればいい。
 こうやって考えると日本人は「困っている人は助けるけれど、正しい事をしている人を支えたりはしない」という事になるのではないだろうか。
 もっとハッキリと言えば、病人やけが人など明らかな「弱者」には手を差し伸べるが、正義のために戦うスーパーヒーローのような「強者」は放っておくのだ。
 誰も「ウルトラマンや仮面ライダーに寄付しよう」などとは思わないだろう。
 「正義の為にやってます」と言う人たちに対して「おぉ偉いなぁ、勝手に頑張ってくれ」というのが日本人の現実。
 誰もヒーローが金欠だとは思わないだろうし…
 政治や社会的な活動に対しても同じような意識なのではないだろうか。

 仮に、である。
 日本人の多くの人が寄付意識を持っていたらどうなるだろう?
 あなたは「一ヶ月に100円」を誰かの為に使う事ができるだろうか。
 100円、そんなに難しい額ではないと思う。
 月に一回缶ジュースを飲むのをガマンするとか、昼食のグレードをちょっと落とすとかその程度で捻出できる額だ。
 100円を落としたら「ちょっと悔しいけどまぁいいか…」で済むだろう。
 100円とはそういう金額。
 では、この100円が積もりに積もったらどうなるだろう。
 日本の人口を1億としよう。
 全員が100円を寄付したら100億円である。
 投票率は大体50パーセントなので、国民の半数が「政治に関心がある」としよう。
 さらに二大政党制が拮抗していると仮定すると、一つの党にはその半分の支持者がいることになる。
 100億の半分の半分…25億である。
 これが「毎月入ってくる」としたら?
 もしも政党に毎月25億入ってくるとしたら、相当に優秀なスタッフを集めてかなり高度な政策が練れるのではないだろうか。
 これがわずか「毎月一回缶ジュースをガマンする」だけで手に入る政治レベル。
 世の中には芸能人のファンだからという理由で月に100円以上のお金を使う人間などいくらでもいる。
 小泉フィーバーの際には小泉元総理のポスターなどがさながら芸能人グッズのように売れていた。
 日本人が寄付をしない人たちだとしても、少し意識が変わるだけで大きな変化になる土壌は十分にありそうだ。
 現在の所「100円の寄付」を効率よく集めるシステムというモノが存在しないが、その気になればどうにでも出来そうである。
 もしこういうシステムが完成すれば、今までのような「政治と金」の問題はかなり減るのではないだろうか。
 こういうシステムがあれば「小沢献金問題」は発生せず、「小沢辞任」も無かったかもしれない。
 政治に対する関心も高くなっているだろうから「検察の捜査に対する疑惑」も問題視したかもしれない。

 とは言っても今現在そんな物は存在しない。
 「検察の疑惑」や「献金問題」に対する国民の反応は「識者」が想定する「理想的な民主主義国家の国民」からはかけ離れているし、上記のようなシステムを構築しようという意思すら感じられない。
 正常な民主主義の確立のためには「政権交代が出来るシステム」は絶対に必要だろう。
 事実上の一党独裁状態だと、「理想的な社会」を作ろうとする「志のある人」は主義主張とは関係なく「与党」から立候補せざるを得ない。
 社会を変えるには与党である必要があるが、政権交代が出来ないのであれば例え自分の理想と異なっていても与党に行くしか道が無いのだから。
 そして上手く与党に入ってもそれで終わりではない。
 与党の中には「違う理想社会」を思い描いている「志ある人」が他にもいるので、そこで党内でのパワーゲームが始まってしまう。
 「利権を守る人たち」や「悪い事をする人たち」が存在しなかったとしても、政権交代が出来ないだけで党内での「正義対正義」の綱引きが始まってしまうのだ。
 そして与党の迷走が始まり政治の停滞に陥る。
 「完全なる性善説」でモノを考えても「理想的な社会の形は一つとは限らない」という要素を加えただけで、政権交代できない事の問題が浮上してしまう。
 政権交代が可能であれば、それぞれの人材はそれぞれ自分の理想に近い政党に入るなり、自ら政党を立ち上げるなりするので、こういう形での政治の停滞は避けられる。
 政権交代はそれ自体が民主主義にとって必要不可欠な要素なのだ。

 今回小沢代表が辞任したのが良いか悪いかは判断が分かれるだろう。
 「識者」たちはこれを「辻褄が合わない」とか「民主主義が検察権力に蹂躙される」などと批難するだろう。
 しかし、「民主主義を正常に機能させる」という視点で考えれば、小沢代表が辞める事で政権交代が可能になるのならば、小沢辞任は正しい判断と言えるだろう。
 「検察の疑惑」や「政治とコスト」の問題は残るが、国民がその議論についていけるレベルに到達していないのだから、これはもう仕方が無い。
 まず先に「政権交代が出来る状態」にして「民主主義を正常化」しない事には、国民の政治レベルも上がらないだろう。
 仮に小沢代表に全く落ち度が無くて何の問題も無く今回の事件が「検察の陰謀」であったとしても、その後政権交代が出来れば小沢辞任は「尊い犠牲」という事になるのではないだろうか。
 長い目で見れば「民主主義が正常化する事」が重要であり、その前には「一政治家の政治生命」など大事の前の小事に過ぎない。
 献金問題が法的に正しいかどうかではなく「民主主義を正常化するため」に「アホな国民のレベルに合わせる」必要があるはずだ。
 そこまで考えれば「ここまで長引かせずに問題が発覚した直後に辞めるべきだった」のではないかと思う。
 これで「辞める時期を逸したために政権交代が出来なかった」のでは、それこそ「小沢代表無駄死に」である。
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アナロ熊?

 本来の当ブログの趣旨とは明らかに異なるような気がしますが、面白かったのでご紹介。
 「アナロ熊」だそうです。
 地デジ化推進キャラクター「地デジカ」に対抗して誰かがネット上で作ったキャラクターのようです。

 例の逮捕事件で地上波デジタル化のCMが使えなくなってから数日後、突如現れた「地デジカ」というキャラクターですが、やはり急ごしらえな感じがします。
 その地デジカ登場から同程度の期間しか経っていないのに、早くもパロディキャラクター登場。
 今回紹介した動画では「アスキーアート」ですが、これまたネット上の誰かが早くも絵を付けたり別の動画を作ったり別アレンジを作ったりと一部で妙に盛り上がっているみたいです。
 いくらパロディーとはいえ、地デジカよりも完成度が高いと感じるのは気のせいでしょうか?(特にこのオリジナルではなく、ここから派生した別バージョンの絵が付いている方…動画終了後に別バージョンがいくつか動画内で紹介されています)
 それもほぼ同期間で作られているのに。
 しかも歌もなかなかのもの。
 親しみやすい曲調に妙に哀愁を感じる歌詞…
 「地デジ反対」と大声で正論を言うよりも、心に響いてくるような気がするのはなぜだろう?
 ちなみに歌っているのは「初音ミク」というコンピューターのプログラム。(これも一部ネット上では話題になりました)
 動画に「※著作権はありません」と表記されているので、おそらくここで紹介しても問題は無いはず。

 ちょっと思ったのですが、今の日本で社会を動かすには意外とこういう形の表現方法の方がいいのかもしれません。
 演説をするよりも効果がありそうな気がします。
 例え興味本位であっても、多くの人に自分達の主張を伝えるにはこういう遊び心のあるやり方の方が適しているのかもしれません。
 社会を変えるための行動として、昔ならデモ行進などをしたのでしょうけど、現代はこういうネット上でも面白いキャンペーンの方が効果があるのかもしれませんね。
 この「アナロ熊」自体は誰かが楽しむためだけに作ったのでしょうけど、もしかしたら数年後は市民運動の一つのやり方としてこの手の方法が定着しているかも。
 もしそうなったらこの「アナロ熊」は「新しい市民運動のきっかけ」と呼ばれるようになるのかもしれません。
 社会を変えるために市民運動などをしている方へ。
 これからの市民運動のためには「作詞作曲と作画」の技術は必須科目になるかもしれませんよ。
  …まず、そんな事にはならないでしょうけど(笑)
 いきなりですが、
民主主義とは

「ド素人」が

政治に参加する事である


と書いたらどう思われるでしょう?
 何だかこの言葉だけ読むと「本当に大丈夫なのだろうか?」と不安が首をもたげてくるのですが…
 でも冷静に考えると「民主主義」ってこういう事ですよね?
 何か間違ってます、私?
 「ド素人が政治に参加する」とか書くと、何かとんでもない事のような気がするのですが、民主主義の本質を分かりやすい言葉で書くとこういう事になりますよね。
 誰でも参加できて、全員で意見を言い合って妥協点を探る。
 民主主義の原点ってこういう事ですよね。
 「誰でも参加できる」というより「誰でも参加出来る制度で無ければならない」のが民主主義の根本なのですから、当然その中には「ド素人」が大量に混じっていても問題は無いはず。
 いや、むしろ混じっているべき。

 今さら何でこんな事を考えたかというと、先日の裁判員に関する記事「『99%コイツが犯人』は無罪の原則」やそのコメント欄を書いていて、ちょっと気になったのです。
 「素人はどこまでやるべきなのか」という事が。
 そんな事を考えていたら「では政治はどうなのだろう?」と思い、上のような言葉になってしまったわけです。
 時々政治家や官僚、学者などが「素人は黙ってろ」というような態度に出ますが、民主主義の原則から考えると、「素人は黙ってろ」の方が間違ってますよね。
 ネット上などでも「何も知らないやつが偉そうに…」というような考えの方もおられるようですが、当然これも間違い。
 「民主主義」の原理を考えれば「ド素人が偉そうに政治を語るのは当然の権利、というかむしろ義務」なのではないでしょうか。
 私自身もこのブログを書いている時に「素人がこういう事を書いたりしていいのだろうか?」と、ふと考えた事が何度もあるのですが、今回吹っ切れました。

 ド素人が

 政治を語って何が悪い!


 と開き直る事にしました(笑)
 まぁこういう事ですよね、民主主義って。
 もちろん素人が好き勝手な事をいうだけでは無責任と言われる事もあるでしょう。
 ド素人とはいえ、参加する以上は「それなりに考え込んだ上での主張」をするのは他の人に対する礼儀でしょうし、また考え込むために必要なだけの情報収集や知識を蓄えるのは必要でしょう。
 とはいえ、個人個人に能力差があるので、出来上がった「主張」には差が出てくるのも当然。
 その差があることを踏まえた上で「自分に出来る限りの事をした」上での主張ならば、その出来が良くても悪くても他の人の主張と同等に扱うのが民主主義の原点なのでしょう。
 そして主義主張が違う相手に対して「相手の言い分を理解する」と同時に「こちらの言い分を理解してもらう」努力をし、その上で全体としての意見をまとめる。
 これが民主主義ですよね。
 というわけで皆さん。
 自分の意見は

 堂々と主張しましょう


 同時に

 相手の意見は

 謙虚に聞きましょう


 これが出来ない人こそ、政治に参加してはいけません。
 「素人が偉そうに…」というのは民主主義では禁句です。
 もちろん素人の側も「わからないからテキトーでいい」はダメですよ。
 真剣に考えましょう。

 民主主義の再確認です。
民主主義とは

「ド素人」が

政治に参加する事である


 この考え方が間違っていると思われる方がおられましたらどうぞ反論してください。
 賛成でも反対でも異論でも、コメント欄にてご意見お待ちしております。
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 何の事だかわかりにくいタイトルにしましたが、早い話が「推定無罪の原則」の事です。
 現代の刑法は「推定無罪」が前提であり、「疑わしきは被告人の利益に」という言葉がそれを象徴しています。
 しかし実際はどうなのでしょう?
 痴漢の冤罪はたびたび起きており、痴漢に関しては「推定有罪」が原則になってしまっています。
 また、先日10年以上前の殺人事件に関しDNA鑑定の再鑑定が行われたところ、DNAの型が一致しなかったという出来事も起きました。
 これなども冤罪の可能性が大きいでしょう。
 別の事件でも冤罪は起きています。
 昨年だったでしょうか、強姦事件の犯人とされた人物が有罪になり、そのまま刑務所で刑に服して出所した後、別件で捕まえた人間がその事件の真犯人だと判明し警察が謝罪し、裁判もやり直して急ぎ無罪判決を出した、などという出来事もありました。
 現行の司法制度や捜査方法には多々問題があるでしょうし、またどのような制度にしたところで冤罪は防げないのだと思います。
 だからこそ、その冤罪を少しでも減らそうと「推定無罪」という考え方を前提にしているのですが…

 推定無罪というのは大雑把に言うと「100人の殺人鬼を野放しにしてもいいから、無実の人間を有罪にしてはならない」という考え方です。
 この考え方自体は間違ってはいないのだと思います。
 しかしこの考え方が社会全体に浸透しているか、となるとかなり疑問の残るところです。
 無実の人間を間違って捕まえないようにするのは当然の事でしょう。
 もしもあなたがある日突然「お前を殺人の容疑で逮捕する」とか言われて、わけがわからない内に有罪になって処刑なんかされた日にはたまったものではありません。
 そんな状態がまかり通っていたら中世の魔女裁判のように、ちょっと気に食わないやつを見つけては犯罪者にでっち上げて刑務所行きにする、などという恐怖社会になってしまいます。
 そういう事態を避けるためには「推定無罪の原則」はとても大切な考えです。
 が、では私たちはその恐怖社会にしないための代償として「100人の殺人鬼を野放しにする事」に賛同できるのでしょうか?
 大半の人は出来ないでしょう。
 ですが、これは2択です。
 「恐怖社会」と「殺人鬼野放し」どちらかを選ばなければなりません。
 今まで誰一人としてこんな選択を突きつけられた事は無いでしょう。
 でも現実には私たちは無意識のうちにこのどちらかを選択させられていたはずなのです。
 無自覚の選択、とでもいいましょうか。
 人間が社会生活を営むという事は、こういう「無自覚の選択」を文字通り無自覚のうちに行っているわけですが、本当にそれが何を意味しているのかを立ち止まって考える必要があるはずです。

 もうすぐ裁判員制度が始まるので、その「無自覚の選択」は白日の下に晒される事になるでしょう。
 裁判員になれば「有罪か無罪か」を国民の誰かが決定する事になるのですから。
 そんな時に「推定無罪の原則」は果たしてきちんと機能するのでしょうか?
 「何となくコイツが犯人っぽいから有罪で良いや」はダメなんですよ?
 「何となくコイツが犯人っぽい」は「100%犯人」ではなく「99%犯人」なわけですから、「1%は犯人ではない」わけです。
 その場合は「疑わしきは被告人の利益に」という事で「無罪」にしなければなりません。
 納得はいかないでしょうが、それが「社会のルール」というものです。
 一般常識とは乖離していますが、現代社会を成り立たせている根幹的なルールなんです。
 守らないと「恐怖社会」になりますから。
 それでも多くの人にとっては納得がいかない、という事になるのでしょう。
 問題の本質はむしろそっちにあるのではないでしょうか。
 つまり「日本人の常識は、現代社会の本質的ルールから乖離している」という事です。
 裁判に一般人の感覚を反映させるのが裁判員制度の意義ですが、その一般人の感覚が現代社会の本質的ルールを内包していない可能性があります。
 別の言い方をすれば「日本人は社会のシステムを理解していない」かもしれない、という事です。
 一部の人たちが「日本の憲法は押し付けられたものだ」というような事を言っています。
 その真偽のほどはともかく「現在の日本社会」は「一般的な日本人」が自らの力で作り上げたものではありません。
 現行の憲法はおろか明治維新やそれ以前に遡っても、日本という国では「市民革命」のような事が起きてはいません。
 常に「一部の人たち」が国の実権を争っているだけで、一般市民が立ち上がり市民デモのような状態から市民が実権を握るために革命を起こした、というような事はありません。
 その結果日本人の社会参加意識、特に「社会論などの難しいことを考えたり論じたりする習慣」は他国に比べてかなり低い。
 そのため日々の生活で培った「日常的な感覚=感情」が「社会正義」であるかのような感覚に陥っている。
 そして現在の「日常的感覚=社会正義」としては「警察が逮捕したから悪い人」という感覚があり、「マスコミで報じられているのが真実」という錯覚まで起こす。
 松本サリン事件では無関係な被害者を「加害者」として、マスコミを含む社会全体で追い込んだりしていました。
 日本の「社会正義」はかなり暴走しがちで危なっかしいものです。
 その「危なっかしい社会正義」が裁判に反映される。
 さらにその「危なっかしい社会正義」の根拠になり、また裁判における「予断」になりそうなデータがあります。
 日本の裁判の「有罪率は99.9%以上で世界最高」というデータです。
 この数字、かなり危険な状態なんです。
 世界的に見ても異常な数字。
 でも日本人の感覚だと「司法試験を通っている優秀な検事が捜査し、同じく優秀な裁判官が裁き、優秀な弁護士が弁護した結果」だから問題無い、という感じでしょう。
 有罪率99%という事は「推定無罪」がまったく機能していない可能性もあるわけです。
 当然冤罪も相当数あるかと思われます。
 それに「99%有罪」なら裁判所なんか要らないのでは?
 しかしこの「99%」という数字を見れば多くの裁判員は「これはまず有罪だろう」と判断してしまうのではないでしょうか。
 裁判が始まる前の段階で裁判員が「推定無罪」か「推定有罪」のどちらの意識を持っているかで裁判の内容自体も大きく変わってしまうでしょう。
 推定無罪の考えなら、目の前にいる被告人は「原則無罪」で無罪である事を確認する中でおかしな点が出てきたら「ひょっとして嘘ついてるんじゃないか?もしかして犯人?」という風に考えていくはずです。
 推定有罪なら、目の前にいる人間は「原則有罪」なので無罪であるデータや証拠をわざわざ探し出すような事はしないのではないでしょうか。
 目の前の人が無実であっても、「有罪にするための証拠探し」を始めてしまうかもしれません。
 推定無罪で行くのならばその裁判は「間違って捕まってしまった無実の人を救い出すために、必死になって無罪の証拠を探しどうしても見つからなければ有罪」というスタンスになるはず。
 「推定無罪」で社会システムを維持していくのならば、裁判員はそういう意識でなければならないはずなのです。
 その結果生まれる裁判の結果は「被告人寄り」の「一般常識から乖離した結果」になるかもしれませんが。

 ここで一つ怖い感覚が生まれますよね。
 推定無罪を押し通したら殺人犯が野放しになり、今より治安が悪くなるのではないか、と。
 逆説的ですが、それは大丈夫だと思います。
 というのも「推定無罪の原則」が現在裁判所で機能しているかどうかは疑問ですが、少なくとも「検察の段階」で推定無罪が働いている可能性があります。
 日本の裁判の有罪率は99%ですが、それは検察からすれば「絶対に負けられない」というプレッシャーになっているはずです。
 詳細はわかりませんが、検察が裁判で敗れれば検察官の査定にも響くのではないでしょうか。
 だとすると検察の萎縮を招いている可能性がありますが、その結果検察は「勝てる裁判しかやらない」という選択をするでしょう。
 という事は普通に裁判をして「有罪か無罪か判断をしかねるグレーな案件」に関しては起訴していない可能性があります。
 検察が「自主的に推定無罪」を実行しているかもしれないのです。
 もしそうだとしたら完全に越権行為のはずですが、「証拠が足りなくて公判を維持できない」という言葉をよく耳にする事を考えれば、この検察の自粛は行われている可能性が高いです。
 裁判員が「推定無罪」になる事で治安が悪くなるのではなく、今現在すでに治安は悪い状態にある、という事もありえるのです。
 「殺人鬼が野放しになる」ではなく「今現在野放しになっている」という事です。
 検察警察が「公判を維持できないから」という理由で起訴しないのは、一度起訴して判決が出ると「一事不再理(一度確定した判決はひっくり返せない)」があるため、証拠が足りないのに起訴して無罪が確定してしまうと、その犯人を二度と捕まえる事が出来なくなるから、それを恐れての事かもしれませんが。
 そちらが原因で「勝てない裁判しかやらない」という状況の場合は、日本の捜査方法や証拠の集め方などを根本から見直す必要もあるでしょう。
 検察側・弁護側、それぞれ山のように証拠や証言を出して、裁判所で総合的に判断するというのが理想でしょうけど、それだと時間がかかる。
 理想の司法システムというのはなかなか見つからなさそうです。

 昨今では厳罰化の流れが強まり、以前に比べて処罰感情も高まっていると感じますが、それは同時に無実の人にも向けられているという意識も持たなければなりません。
 日本では有罪率の高さからか「容疑者や被告人」=「犯罪者」という意識が強いですが、原則として容疑者や被告人は「犯罪者の可能性のある人(無実の可能性のある人)」であって即「犯罪者」ではありません。
 裁判員制度の導入と共に、そういう意識改革もしていく必要があります。
 その上で、なぜ日本でこんなにもヒステリックに厳罰化の流れが強まり、犯罪者排斥の機運が高まっているのかという点も考える必要がありそうです。
 あくまでも個人的な見解ですが、このヒステリックなまでの厳罰化の流れには「悪い事をしているのにのうのうと生きているのが許せない」という意識があるのではないでしょうか。
 その裏には被害者は酷い目に遭っているのに十分な救済をされず、悪人が得をしているのではないか、という意識があるのかもしれません。
 やったもん勝ち、やられ損、というところでしょうか。
 では、仮にこの関係が崩れたらどうなるでしょうか?
 被害者がやられ損で無くなったら…
 出来るわけが無い、と考えるのは早計です。
 場合によるでしょうが、例えば国家が犯罪被害に遭った人に対して金銭などの補償を手厚くするという方法はどうでしょうか?
 というより、海外に比べて日本は犯罪被害者に対する様々な援助が乏しいという現状があります。
 海外では犯罪の被害に遭うと見舞金などが支給され、被害に対する補償が手厚いと聞きます。
 犯罪の被害に遭ってもある程度の補償があれば被害者の処罰感情も少しぐらいは和らぐのではないでしょうか。
 その上での推定無罪ならば「何でアイツが裁かれないんだ」という意識も若干は弱まると思います。
 被害の救済と罪に対する裁きを分けてしまう事で、裁判員が被告を裁く時に遺族の感情に流されずに純粋に「有罪か無罪か」を判断する事が出来ると思うのです。
 社会全体に強い処罰感情があると、極端な事を言えば「とりあえず誰かを裁いて有罪にしておかないと社会に対して示しがつかない」という考えが裁判で発生し、その結果「疑わしいけど有罪にしておく」という冤罪の構図が生まれそうです。
 また言うまでも無く冤罪というモノは「犯人が別にいる」事であり、それは犯人が野放しになっているという事でもあります。
 冤罪か否かはともかく無罪判決が出たところで、それは事件の終焉ではありません。
 無罪判決が出たということは「その被告が犯人ではない」というのが確定しただけで、真犯人の特定には至っていないわけですから、「無罪=事件の終焉」ではなく「無罪=捜査の続行」です。
 真犯人が別にいる場合、その犯人にとっては無罪の方が困るわけです。
 無罪判決が出て、その被告が実は真犯人であったとしても、捜査が続行されていれば警戒態勢が続くわけで次の犯行に及ぶのは困難になるでしょう。警察に目をつけられる事もあるでしょうし…
 無罪になったのは「その一件」に関してだけなので、また事件を起こせばその事件に対して新たに裁判が行われるわけです。
 たまたま一件や二件無罪になった所で常習性のある犯人ならば、その内必ず有罪になるでしょうし、常習性が無ければ次の事件は起きないので治安は保たれます。
 裁判で無罪を出すと犯罪者を野に放ち治安が悪くなるような気がしますが、現実的には無罪が出ても治安が悪くなることは無いでしょう。
 むしろ緊張感が生まれて治安が良くなる可能性もあります。
 仮に裁判で真犯人に対して無罪を言い渡してしまい、その結果次の事件が起きてしまったとしても、それは裁判員や裁判官の責任ではありません。
 一度の公判で有罪にするだけの証拠を集められなかった検察の責任です。
 そういう責任の所在も明確にしておかなければ無用な悩みに苛まれる裁判員も増えそうです。
 「もし、この人が犯人なのに無罪判決を出してしまったら、私の責任かもしれない」などと裁判員が悩んではいけないのでしょう。
 裁判員制度が導入された経緯と昨今の厳罰化世論を考えると、裁判員制度で刑が重くなったり有罪が増えそうな気もしますが、むしろ刑が軽くなったり無罪判決が増える事もありえるでしょう。
 有罪に出来ないのは検察の責任ですし、裁判員は「無罪判決」を出す事を恐れてはいけません。
 むしろ「有罪率99%」を下げ、80%程度になってもいいくらいです。

 …それにしても、推定無罪の原則を徹底して貫き厳格に運用した場合、現在の警察検察の捜査手法だと現行犯以外は有罪に出来ない可能性も出てくるのではないでしょうか?
 「疑わしきは被告人の利益に」を最大限に使えば「無罪を勝ち取るタイプの完全犯罪」も増えてしまうかもしれません。
 そういう事態を避けるためにも警察検察の捜査手法が更なる進歩をしてくれる事を願います。
 技術や捜査手法が時代遅れなために真犯人を有罪に出来なかった、では本当に治安が悪くなりますから。
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 先日当選した、森田健作千葉県知事が「無所属か否か」で揉めています。
 新任早々森田知事にとっては頭の痛い問題でしょう。
 それにしてもこの問題、傍目に見るとものすごい矛盾が発生しているのに誰もそこを指摘しません。
 不思議です。
 何が矛盾か?
 森田健作知事の言い分は「完全無所属だから適法」というものです。
 告発した人たちの言い分は「無所属といっているのに自民党の支部代表を務めていたから公職選挙法(虚偽事項の公表)だ」というものです。
 どちらの言い分が正しいかはともかくとして、社会全体はどう思っているのでしょうか?
 えっ?
 そんなの調べてないから分からないって?
 そんな事は無いんですよ。
 新聞もテレビも自民党も民主党も、政治に関わっている人ほとんど全てが「森田=自民党」とハッキリと宣言しています。
 いつそんな事を言ったかって?
 そんな話は聞いた事が無い、ですか?
 そんな事は無いでしょう、皆さん耳にしているはずです。
 「自民党秋田県知事選、千葉に続いて2連勝」って。
 自民党は2連勝で「国民の支持が戻った」と喜んでいるし、民主党は2連敗でショックを受けています。
 マスコミも各社揃って「自民党2連勝」と宣言しちゃってます。
 ほら、完全に社会全体は「森田=自民党」に何の疑問も持ってないじゃないですか。
 国民が勝手に勘違いしているわけではないんですよ。
 当の自民党が「自民2連勝」って事で喜んじゃってるわけですから、事実上自民党が「森田知事は無所属じゃなくて自民党の人です」と宣言しちゃってるようなものです。
 自民党が森田知事の公職選挙法違反を公認してしまっています。
 どういうつもりなんでしょう、自民党…
 さらにおかしな話は続きます。
 秋田県知事も「無所属」って事で当選してるんですよね。
 これって秋田県知事も公職選挙法違反(虚偽事項の公表)って事ですよね。
 どうなってるんだ、この国は?
 この問題の根が深い理由はもう一つあります。
 敗れてしまった民主党の候補も「無所属」を標榜していたようです。
 つまり「勝っても負けても選挙法違反」という状態。
 ちなみに選挙法に違反すると当選無効になる可能性も…
 自民が勝とうが民主が勝とうが結果に関係なく当選無効状態。
 どういう事、コレ?
 頭おかしくなりそうですよ。
 誰を選んでも当選無効って…民主主義が死んじゃってるじゃないですか。
 とりあえず誤魔化した所で汚れた民主主義であることは疑いが無い。
 自民も民主も「自民2連勝だ」と騒いでいますけど、騒げば騒ぐほど「公職選挙法違反が濃厚になっていく」という矛盾。
 また、コントか?
 おかしな笑いがこみ上げてきて、はらわたがねじ切れそうなんですけど。
 マスコミもこの問題スルーってどういう事?
 あえて「ボケ潰し」をして笑いを大きくしよう、とかいう作戦ですか?
 それとも矛盾に気付いていない?

 現状において森田知事がどう言おうと、マスコミもそして自民党自身が「森田=自民党」を宣伝して既成事実化させようとしています。
 秋田県知事も同様の状態。
 という事は両知事が「身の潔白」を証明するためには「自民党と絶縁宣言」をするしかない。
 でもそうなると当の自民党は「自民離れが加速する」事にもなるでしょう。
 せっかく当選した両知事の功績、自民2連勝が幻に消えるのですから。
 しかし絶縁宣言をしなければ知事二人がその地位を追われることになる。
 かといって絶縁宣言を認めれば「知事が二人も絶縁するって…自民党ってダメなんじゃない?」というイメージが国民に広がり自民離れが加速。
 どっちに行ってもダメな感じなのに、当の自民党は大喜び。

 よく練られたシナリオのコントだわ、コレ。
 とてもマネできない…
 問題はこの高度に練られたコントの内容にマスコミを始め多くの国民が気付いていない所でしょうか?
 この政治状態は笑うところだぞ、みなさん。

 困った事にコレがコントではなく現実で、明らかな矛盾も「何も無かった事」にして風化させてしまうのが現在の日本社会ですけど… 
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 最近は金融危機の影響であまり聞かなくなりましたが、少し前まで社会全体で「ものつくり」という言葉が使われていました。
 そして、今後経済が回復すると共におそらく再び使われ始めると思うこの「ものつくり」という言葉ですが、具体的にその意味するところは何なのでしょうか?
 「日本が誇るものつくり」「日本はものつくりで生きていく」「ものつくり立国」などなどスローガンは勇ましいのですが、その実体はちょっと怪しい。
 この手の「ものつくり」という言葉でよく使われる例が2パターンあります。
 どちらも「日本が世界に誇る最先端技術」という言葉で表現されますが、実態は全く逆のイメージの2つです。
 一つは「研究技術」系とでも言いましょうか。
 大手メーカーなどが博士などの科学者と作る今までこの世に存在しなかった新しい技術の類です。
 もう一つは「職人の神業」系と便宜上名付けておきましょうか。
 町工場などにいるその道何十年という超ベテランの職人さんが作る、指先の感覚だけで数ミクロンを感じ分けて作り上げる精密部品の類です。
 「NASAのスペースシャトルの部品を作ってます」というような宣伝に使われるようなヤツですね。
 どちらも日本が世界に誇る最先端技術です。
 ですがこの2つ、本当に「ものつくり立国」が出来るほどの技術なのでしょうか?
 もちろんこれらの技術が優れている点には異論はありません。
 問題はこれらが出来る人間が何人いるか、というところです。
 「研究技術」系の人たちは社会全体から見ても数パーセントもいないはずです。
 「職人の神業」系に至っては名簿作って数えられるぐらいの人数しかいないでしょう。
 両方足しても国内の人口のわずか数パーセント。
 たったこれだけの人数の技術力で「ものつくり立国」ですか?
 いくらなんでも無理があるんじゃないでしょうか?
 「立国」とか「生きていく」というような表現を使う以上、「国民の大多数がそれに関連する分野に関わっている」というような状態のはずでしょう。
 ところが現実には数パーセント。
 これで生きていくってのは無理な話です。
 おそらくああいうスローガンを掲げている人たちは「ものつくり」=「製造業」と考えているのでしょう。
 その図式で考えるなら「ものつくり立国」=「製造業立国」であり、具体的に言えば「日本の工場で日本人が自動車や家電を大量生産し、それを輸出して稼ぐ」という事なのでしょう。
 しかしこの図式は既に破綻しています。
 産業の空洞化という言葉がずいぶん昔から使われていますが、実際に製造業は既に海外に移転されてしまっている事が多く、またそうする事でしか国内のメーカーは生き残れなくなっています。
 中国や東南アジアなど、ゆくゆくはアフリカ諸国が「安い労働力」を武器に生産工場の地位を持って行くでしょう。
 それに対抗するためには日本人の賃金を下げるしかない。
 という事で「製造業への派遣業の解禁」が行われ、それが最近問題が噴出している「派遣切り」の諸悪の根源なわけです。
 逆にあの時派遣業を解禁しなかった場合、日本の大手メーカーの多くは生産拠点を海外に移す事で生き残ろうとしていたので、派遣業を解禁しないと失業率が上がるぞ、と政府を脅していたようなものでもあるわけですが…
 こういう風に考えると少し前に叫ばれていた「ものつくりで生きていく」は「日本人の労働を安売りし、国民の多くを貧乏にする事で国家を成り立たせよう」と言っていたに等しいのではないでしょうか。
 あの言葉の本質にはどこにも「日本が誇る最先端技術」という要素は無かったわけです。

 日本には資源がありません。
 そういう国が国際社会の中で生きていくためには「加工貿易」しかないでしょうし、そういう意味では「日本はものつくりで生きていく」という考え方自体はさほど間違ってはいないでしょう。
 しかし、問題はその中身。
 「日本が誇る最先端技術」という要素を加味するなら、多くの人が「博士」か「職人」にならなければなりません。
 ですが、今の所そういった要素は表立って出てきてはいません。
 むしろその逆をやっているような気すらします。
 以前から言われているのですが「日本の頭脳が流出している」という言葉もあります。
 日本という社会のシステムでは優秀な博士が日の目を見る事が少なく、そのため優秀な人ほど海外に活動拠点を移してしまうという現実があります。
 日本の社会が科学者を冷遇してきた結果です。
 青色発光ダイオードの訴訟など一時期いくらかそういう問題が注目を集めましたが、おそらく報われている科学者や技術者はごく一部。
 「日本が誇る最先端技術」を生み出し「ものつくり立国」に貢献してくれる人たちに対する仕打ちは思いのほか厳しい。
 同様の例は職人の世界でも起きているでしょう。
 これも数年前から起きていますが、定年退職した「神業を持つような職人」が技術顧問として他国に渡って技術指導をしています。
 彼らに言わせれば「定年退職後は日本には居場所が無い」との事です。
 また「日本のメーカーは高い技術を不当に安く買い叩こうとする」という意見もあるようです。
 言われて見れば「世界に誇る職人の神業」を持っている町工場は「神業」を持っているにもかかわらず大手メーカーの下請けで、金銭的にも恵まれていません。
 金銭面だけでなく社会的地位も決して高くは無いでしょう。
 北京五輪の際でしたか、砲丸投げで使う砲丸を作る職人さんが「中国には私の砲丸は送らない」と決めちょっとしたニュースになっていました。
 彼の作る砲丸は非常に精巧に出来ていて、オリンピックを始めとするあらゆる国際大会の場で使われ、多くのアスリートの愛用されていたそうです。
 そして彼の砲丸は世界記録を出すのにも一役買っているそうです。
 いわば「世界一の砲丸職人」です。
 さて、この世界一の技術を持つかけがえの無い人材である職人さんですが、果たしてその希少価値に見合うだけの報酬を得ているのでしょうか?
 具体的な金額は私は知りません。
 しかし、新聞やテレビで映された彼の職場などは決して裕福には見えませんでした。
 例え道ですれ違ったとしても彼が「世界一の技術を持つ人間」だと気付く人はいないでしょう。
 それが良いか悪いかは言いませんが、彼の事を知って「私も職人になろう」と決心する人間がどの程度いるでしょうか?
 「労働=報酬」という考えに拒絶反応を示す人もいるでしょう。
 ですが、それなりの技術を持っている人間に対してはそれなりの敬意と報酬を支払うべきなのではないでしょうか。
 まして世界一の技術です。
 他に代わりがいない、世界にただ一人の人間なのです。
 その希少価値は相当高くて当たり前だと思いませんか?
 弁護士や医者はたくさんいます。
 世界一の弁護士や世界一の名医なら話は別ですが、普通の弁護士や医者ならいくらでも代わりがいるでしょう。
 では世界一の砲丸職人の代わりは?
 いるわけないですよね。
 世界一なんですから。
 ならば世界一の職人さんの地位は、並みの弁護士や医師の遥か上で無ければつじつまが合いません。
 まして一年ごとに代わって誰にでも出来ると言わんばかりの総理大臣など世界一の職人の遥か下です。
 しかし現実には世界一の職人の扱いは「単なる一労働者」でしょう。
 高額報酬どころか社会的な敬意すら払われていない。
 これで後に続く人材が育ちますかね?
 「日本が誇る最先端技術」は果たしていつまで維持できるのでしょうか。

 詳しい事はわかりませんが、ドイツには「マイスター制度」というのがあります。
 ドイツでは職人の地位は日本と比べて遥かに高いようです。
 それが具体的にどういう事なのかまではわかりません。
 しかし、日本に置き換えて考えてみましょう。
 例えば今現在、「大企業の社長さん」と「世界一の職人さん」がいます。
 あなたが「スゴイ」と思う人、もしくは「話を聞きたい」「知り合いになりたい」と思うのはどちらでしょうか?
 正常な日本人ならおそらく「大企業の社長さん」と答えるでしょう。
 これがマイスター制度が根付いているならば、答えは半々になるはずです(職人の世界は狭いのでその分野に興味が無い人ばかり集まってしまう場合偏るでしょうけど)
 また、社会的地位はどうでしょう。
 結婚相手として「一流企業の社員」と「職人」が並んだ場合。
 愛だ恋だという理屈をとりあえず除けるため、仲の良い友人にこの二人のお見合い写真を渡すという設定にしましょう。
 あなたならどちらの方をその友人に薦めますか?
 おそらく「一流企業の社員」の方でしょう。
 日本人の常識的感覚からすれば「友人に一流企業の社員をお見合い相手として薦める」のは無難な判断と言えます。
 上の一文で注意すべき点、わかりますか?
 「常識的感覚」と「無難な判断」という言葉がクセモノですよ。
 普通に読んでいたら何の迷いも無く「まぁ当然だろうな」と思ったでしょう、そこのアナタ!
 その感覚がクセモノなんですよ。
 この「普通の感覚」がある種の差別というか日本における職人の地位の低さを現しているのです。
 もしマイスター制度が根付いている国ならばどちらの人を薦めても無難な判断になるでしょう。
 友人に対して「人柄で選べば?」とか「趣味が合う人がいいよね?」とか「価値観が近い人が良いと思うよ」という言葉が真っ先に出てくるはずなんです。
 しかし今現在の多くの日本人は何の迷いも無く「一流企業の社員」をとりあえず推すでしょう。
 こういう人間関係の分野だけではありません。
 例えば金融関係の信用力はどうでしょうか?
 銀行に「家を建てたいからお金を貸してくれ」と言った場合、一流企業の会社員なら審査もすんなりと通るのではないでしょうか?
 これが町工場の職人だと銀行側も「大丈夫か?」と慎重になり審査も厳しくなると思うのです。
 銀行だけでなくクレジットカードなども同様でしょう。
 こういう小さな事の積み重ねが「社会的地位の違い」という事になります。
 「世界一の職人と話が出来る」ならば「イチロー選手と話が出来る」と同じかそれ以上の価値があるはずなんですが、おそらくそういう風に感じる人はいない。
 「トヨタの社長の講演」と「イチロー選手の講演」の二択なら迷う人は多そうですが、そこに「世界一の職人」が選択肢に加わっても事実上二択のままでしょう。
 それが「社会的地位の違い」です。
 もしも日本が「世界に誇る最先端技術」で「ものつくり立国」を目指すなら多くの人にとって「職人」や「技術者」が魅力的な職業にならなけらばなりません。
 しかし現在の日本は「魅力的な職業」どころか注目さえされていない。
 一時期「カリスマ美容師」というのが流行りましたが「カリスマ職人」という人たちにスポットライトを当てても良いのではないでしょうか?
 技術を披露する場が少ないのも気になります。
 一応「技能五輪」というようなものや「現代の名工」というような制度もありますが、社会的認知度はイマイチ。
 マスメディアでも大きく取り上げられる事は無い。
 あくまでも「知る人ぞ知る」という程度。
 しかもその優勝者や名工たちの収入などもあまり知られてはいない。
 スポーツ選手や政治家、弁護士や一流企業の社員の収入が話題になる事はありますが、職人の収入が話題になる事は滅多に無い。

 もしこれから日本が「世界に誇る技術力」で「ものつくり立国」をするつもりならば、技術者には「特許料」を、職人には「社会的地位」と「その技能に見合った収入」を提示する必要があるのではないでしょうか。
 それらを用意できなければその道を志す若者は減り、優秀な人材も集まらないでしょうからこの国の経済はジリ貧になっていくでしょう。

 昨今「景気対策」に追われその中でしか「雇用問題」を考えられなくなっていますが、派遣切りや期間工のような雇用問題と同時進行でマイスター制度や技術者に対する見返りを考え、それに伴う各種の制度(※)を整備する事が日本が今後大きく飛躍するためのカギになるのではないでしょうか。
 ※各種の制度…マイスター制度やそれに伴う各制度。「学校」や「技術力を認定する制度」、社会的地位や信用の確立、賃金・雇用関係(労働法関連)や雇用保険や年金制度などなど、やれることはたくさんありそうです。
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 世界中が不景気だろうが地球温暖化は進んで行きます。
 現在世界は不況を乗り越えつつ同時に温暖化対策もしなくてはいけない、という状況になっています。
 不況を乗り越えるためには経済を活発化させなくてはならないのですが、変に経済が活発化すると温暖化が進んでしまう。
 そのためただ単に経済の活性化を促すだけではなく、温暖化対策になり得るような分野においての経済の活性化を目指す、という少々面倒くさい状態。
 アメリカではグリーンニューディールというのをやろうとしていますね。

 さて、この温暖化対策。
 「モッタイナイ」という言葉が世界中に広まっていますが、それ以前から「3R」という言葉で表していました。
 3Rとは「リデュース(ゴミの減量)」「リユース(再使用)」「リサイクル(再利用)」という言葉の頭文字が三つともRなので3Rなのだそうです。
 単純に考えればリサイクルよりもリユースの方が環境負荷は小さいと思うのです。
 リサイクルにしてもリユースにしても一度回収しどこかの向上へ運び再商品化して流通させるという点は同じですが、そのまま使い回すリユースの方が一度原料まで戻して別の商品にするリサイクルよりもエネルギーは使わないはず。
 という事は出来る限り物を大切に使い、多少壊れても修理して使うというのが原則としては環境にはいいはずなんです。
 ところがこれを実践すれば当然新品を買う人が減ってしまうので、経済の停滞を招く恐れがあります。
 産業革命以降でしょうか、世界経済は「大量生産大量消費」をする事で発展してきました。
 効率的に大量に作ることで単価を安くし、より多くの人により安く行き渡らせるというのが基本です。
 この効率化の過程で機械化や分業化が進み、さらに効率化を進めました。
 当然生産に使用するエネルギーも膨大な量になっています。
 資料の信憑性に疑問を投げかける学説もあるようですが、地球の平均気温やCO2濃度など温暖化を示す数値が産業革命以降急速に増えたというデータも出ているようです。
 単純化すれば「経済活性化=温暖化」です。
 その図式を少しでも崩すために様々な技術発展をさせ多種多様な「エコグッズ」も作られるようになりました。
 そして一部ではこのエコグッズで景気回復を狙っている節もあります。
 例えば省エネ家電などですね。
 さて、ここで素朴な疑問です。
 「エコグッズを大量生産大量消費する事は本当にエコなのでしょうか?」
 おそらく違うと思います。
 エコグッズだろうが環境に配慮していようが物を生産する限りはエネルギーを消費しますし、それらを流通させるのにもエネルギーが消費されます。
 「エコなら何でもいいだろう」と今まで通りの経済方式で「エコグッズの大量生産大量消費で経済活性化」をすれば、温暖化は進みます。
 大量生産大量消費というやり方自体を改めなくてはならないはずです。
 ではそんな事が出来るのか、というのが問題です。
 ここで今回の記事のタイトル「トヨタの期間工は自動車整備士になれるのか?」という問題になるわけです。
 大量生産大量消費を改め、リユースつまり修理をしてより長く使うという方式に切り替えた場合、あらゆる面に障害が発生するでしょう。
 こういう経験はありませんか?
 何かが故障してお店に持って行ったら「あぁ〜、これは直すより買った方が安いですよ」という経験。
 原始的に考えるとこんなおかしな話は無いはずです。
 テレビのスピーカーが故障したとして、他の部分は無事なのですからスピーカーだけを交換すればいいはず。
 なのに買った方が安い。
 一部分の値段より全体の方が安い、という事になってしまいます。
 「リンゴ一個で100円だけど2個買ったら2つで50円だよ」と言われているようなものです。
 原始的に考えると理解に苦しむ現状です。
 もちろん買った方が安いという理由も説明は出来ます。
 念のため簡単に書いておきましょうか。
 まず修理するためには修理箇所を特定する必要があります。
 その作業に人件費がかかります。
 しかもそれなりの技術を持った人の人件費です。
 そして修理箇所を見つけたら部品を取り寄せて、その後で修理します。
 部品の取り寄せにも手間がかかりますし当然修理にも技術を持った人の人件費がかかります。
 商品を「修理センター」などの送る、というような場合は運送費までかかります。
 他にも細かな理由は多々あるでしょうが、要するに人件費(技術料)などが主な理由でしょう。
 現在の経済システムが「修理をせずに新しく買う」事を前提にしてしまっているため、そのルールと違う事をしようとすると余計な費用がかかってしまう、という言い方も出来そうです。
 逆に自転車屋など、そこに全ての部品が揃っていてその場で簡単に修理が出来る様な物の場合は直して使った方が安い、という現象がおきます。
 自転車は構造が単純、というのも理由でしょう。
 この「構造が単純」というのも重要な所です。

 現在出回っている家電や自動車などは非常に多機能です。
 そして構造は複雑怪奇です。
 経済のシステムが「直さない事」を前提にしているので、構造がどんなに複雑化してもしばらく壊れない程度の耐久性があればそれでよかったわけです。
 不良品が出たら新品と交換、という風にしているわけですから複雑怪奇な構造の全てを完全に理解し修理出来る人間など必要が無いわけです。
 それ以前にマイクロチップなどを使っている場合は人間の手で修理する事自体が不可能。
 修理しない事を前提にしているからこそ、小型化が出来、高性能多機能化が出来たわけです。
 さらにこの複雑怪奇な代物を生産している人たちは構造を理解できているかといえば、おそらくできていない。
 大量生産大量消費のための効率化を優先したため、あらゆる作業が分業化。
 その分業化された一つ一つの作業は完全な単純労働です。
 かつて「職人」と言われるような人たちは、一人で全ての作業が出来る人たちでした。
 しかし現代の「労働者」は一人で一つの作業しか出来ません。
 自動車一台を一人で作るのではなく、「ドアを付ける人はドアを付けることしかできない人」です。
 工業だけではありません。
 外食産業はどうでしょう?
 一人で全てをこなす料理人(シェフ)のいる店は減り、ファーストフードのような「一つのメニューを分業制で作る人」ばかりになってしまいました。
 「全てをわかる人間」を育てるのにはそれなりの期間がかかります。
 しかし一つの作業だけを繰り返す人を育てるのは簡単です。
 マニュアルさえ作ればその日の内から可能かもしれません。
 これも効率化です。
 人を育てる作業を効率化してしまった結果です。

 もしリユースを進めるのならば様々な分野の中古品市場を活発化させるのが必要でしょうし、そのためには「修理が出来る人」を大量に育てる必要があります。
 しかも商品自体を「複雑怪奇で修理不可能な物」から「修理が出来る程度に複雑な物」に替えて行かなくてはなりません。
 それはそのまま「大型化低性能少機能」な物ということになるのかもしれません。
 しかしそれだと省エネ技術は使えなくなる可能性もあります。
 省エネ技術は最先端の複雑怪奇でしょうから。
 大量生産をやめるとなれば大量の失業者が出ます。
 そのため「効率的な人材育成」によって生じた「単純作業しか出来ないような人たち」を教育し、「修理が出来る人たち」に育てなおさなくてはならないでしょう。
 期間工から自動車整備士に転職するような事です。
 一体どれだけの人がそれに対応出来るのでしょうか。
 また、その教育費用や教育期間はどのくらいで誰が負担するのか、誰が教育するのかなど問題山積みです。

 となると、それらとは全く別な方法を取る事も考えなくてはいけないのかもしれません。
 例えばパソコンはどうでしょう。
 なぜここでパソコンが?と思う方も多いでしょうけどパソコンの構造というのは結構参考になりそうです。
 パソコンというのは言うまでも無く非常に高度な代物です。
 しかしこのパソコン、ある程度詳しい人なら自分で部品を買ってきて組み上げてしまいます。
 パソコンの箱の中を怖くて開けられない人には理解不能かもしれませんが、パソコンと言うのは「いくつかの高度な部品」が「組み合わさっているだけ」なので少し知識がある人ならプラモデルでも作るように簡単に組み上げる事が出来ます。
 この考え方を他の商品に全て応用するというのはどうでしょうか?
 テレビは「画面」と「スピーカー」とその他の「いくつかの電子部品」に簡単に分けられる構造にするんです。
 どこかが壊れたらパソコンの部品を組み替えるようにテレビの壊れた部品だけを交換する。
 「部品」と書きましたが正確には「部品がいくつか集まったパーツ」です。
 そうやって簡単に一部だけを組み替える事で修理が完了するような仕組みにすれば、壊れた家電が全てゴミになるのを防げ、一部の交換部品だけで済むので資源の有効活用にもなります。
 新しい省エネ技術が開発された場合も、その部品だけ入れ替える事でムダが減るはずです。
 テレビだけでなく自動車でも同じです。
 新しく燃費のいいエンジンが開発されたら「エンジンだけを簡単に積み替えられる」ように最初から自動車自体を設計するんです。
 今までガソリン車だったものをハイブリッドカーや電気自動車、燃料電池車に簡単に変更出来るような自動車の設計を考える。
 当然、各部品が各社で共通して使えるように規格の統一などもしなくてはいけないでしょう。
 難しいとは思いますがこういうのも一つの案ではあります。
 この方法なら「製造業の労働者」が「修理業の労働者」に転職する際、期間工から自動車整備士に転職するよりはハードルが低くなるでしょう。
 他の家電などもそういうシステムに変えて行く事が出来れば修理という技術が比較的簡単なものになり、昔のように「商品の全てを熟知している」ほどの知識が無くても「壊れた箇所を見つけパーツごと交換する」という程度になります。
 それならば短期間で修理の技術を習得させる事も容易になるのではないでしょうか。
 大量生産をやめる事で余ってしまう労働力を吸収しつつエコに繋げる一つの方法だと思います。
 それでもまだ問題は多そうですが…
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