一言談話室

使用方法は「一言談話室・使用方法」の記事を参照してください。 ここの少し下にある「カテゴリー」から探すのが簡単です。

カテゴリー


FC2ブログランキングに参加中です。


プロフィール

泡雲法師

Author:泡雲法師


募金


FC2投票


ブログ全記事表示


過去ログ


最近のコメント


最近の記事


最近のトラックバック


リンク


上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

自民党、末期症状

 自民党、いよいよ末期症状です。
 東国原宮崎県知事に出馬を要請したところ「総理のイス」を要求されました。
 完全に足元見られてます。
 さらにマニフェストに「全国知事会作成の地方分権の提言」を完全な状態で盛り込む事も要求されました。
 東国原知事、見事です。
 自民党のいつもの手口「人気者を担ぎ上げて、人気だけ利用させてもらおう」という「使い捨て集票マシーン計画」を見事に潰しています。
 自民党内では東国原知事に対して「生意気だ」というような意見も出ているようですが、本当にそうでしょうか?
 東国原知事は「自分の人気が利用されて国民が不利益を被る」という事態を避けたかったのでしょう。
 自民党はいつも選挙前になると「選挙公約」という名の口約束を繰り返し、選挙の時だけ「国民にとって都合の良い事」を並べ立て、選挙に勝った途端に前言を翻すというエゲツナイ事を長年繰り返してきました。
 いつぞやなどは「公約を守れない事は大した事ではない」とまで発言しています。
 ほとんど詐欺みたいなもんです。
 比例代表制が導入されてから、さらにそのやり方が酷くなりました。
 その時々の「人気者」をかき集め「集票マシーン」として利用した挙句、選挙後には使い捨ててしまい「選挙における党への貢献度」など考慮せずに実権を与えないというやり口です。
 時の人気者達はいつも口車に乗せられ選挙中は立派な事を言うのですが、それが実現された事は無い。
 「政治を変える、社会を変える」などと人気者達は口にしていましたけど、政治も社会も変わりましたか?
 いつもいいように利用されているだけなんです。
 古賀選挙対策委員長は「今の自民党にない新しいエネルギーがほしい」と言ったそうですけど、「新しいエネルギー」って何?
 察するに「人気」であり「票」ですよね。
 選挙で勝ちたいから、自民党を延命したいから新しいエネルギーをくれ…
 何だか生き血を求める吸血鬼みたいです。
 「新しい血を、新しい血をくれ~!!!」って。
 「国民の理想」と言う「太陽」が眩しいんでしょうか?

 もしいつも通り東国原知事が自民党に利用されていたら、どうなるでしょう?
 国民の多くは「社会を変えてくれそうな東国原知事」に期待して「自民党」に比例代表で投票し、自民党が勝ちます。
 が、いざ政権を取ったら掌を返し、いつものような政治を続けるだけです。
 国民の希望は踏みにじられたままです。
 今回、東国原知事がああいう要求を突きつけたのは「国民の気持ちを踏みにじられないための準備」でもあったのでしょう。
 橋下大阪府知事は「断るための理由」と判断したようですが、東国原知事は半分ぐらい本気だったのではないでしょうか?
 ダメもとで言ってみたのだと思います。
 多分無理だけどもし通ったら社会を変えられる、と考えたのではないでしょうか。
 実際にも無理だと思いますけど。
 そもそも中央官僚と二人三脚で政治をやってきた自民党が地方分権を推し進めるマニフェストを受け入れられるわけが無い。
 しかも今回の場合は「自分を総理にしろ」と要求しているわけですから、今までのような口約束という訳には行かない。
 別の言い方をすれば自民党が信用されていないわけです。
 「約束したぐらいでは実行されないから、実現できるよう私に実権をよこせ」というのが東国原知事の本音でしょう。
 現役の知事に信用されていないのですから、自民党もオシマイです。
 にもかかわらず自民党内部からは「生意気だ」との発言。
 事態の深刻さがわかっていないのではないでしょうか。

 ところで仮に東国原知事が総理になったとして、本当にこなせるのでしょうか?
 宮崎県知事の実績がどの程度なのかは正確にはわかりません。
 彼は「宮崎県のセールスマン」としてメディア露出を増やす事で宮崎県のイメージアップを通じて経済振興を行っています。
 その功績はかなり大きなものだと思いますが、それはあくまで「芸人・そのまんま東」が知事になったという意外性・話題性であり、それまでの彼の知名度を利用した効果でもあります。
 それまでの芸人としての知名度が高かったからこそ「セールスマン」としての実績に繋がったのでしょう。
 彼が総理になった時にこれと同じ様に「日本のセールスマン」になれるか、といえばおそらくNOでしょう。
 彼は世界的には知名度が低いはずです。
 「知名度を利用したセールス」作戦は国際舞台では使えません。
 「日本のセールスマン」という意味でなら「ビートたけし」を総理大臣にした方が効果は大きいでしょう。
 「監督・北野武」としてなら知名度は高いはずですから。
 では、セールスマン以外の面での東国原知事の実力はというと、それほど突出して秀でているわけではないのではないでしょうか。
 正確なところはわかりませんけど、実務面のみでいったら「目だったセールス無し」で赤字を黒字にひっくり返した橋下大阪府知事の方が上という気がします。
 東国原知事が条件として突きつけた「全国知事会作成の地方分権の提言」がどのような内容なのかはわかりませんが、おそらくそれ自体には大きな問題は無いと思います。
 が、それはあくまで「内政」に関わる事。
 総理大臣は「外交」もしなくてはなりませんが、東国原知事の外交能力は全くの未知数。
 しかも世界的知名度も無い。
 「世界の北野の弟子」では少々心もとない…
 さらに言えばそもそも「国政」の経験も無い。
 「外交」や「国政の経験」という事まで入れるならば、「東国原総理」よりも「民主党」の方が安定感がありそうですよね。
 「東国原総理」となった場合、前述のマニフェストが実行されるので「中央官僚の協力」はあまり期待できないでしょうし…
 自民党が東国原知事の要求を受け入れたとしても、先行きは不安の方が大きいです。

 それにしても自民党…アホですよね。
 いつもの調子で「使い捨て集票マシーン」にしようと思ったら逆襲されて。
 その上「生意気だ」発言。
 自分達が彼の人気を利用しようとした浅ましさを棚に上げて「生意気だ」とは何事でしょう?
 橋下大阪府知事の言葉によれば「公認をもらうのも大変」なのだそうです。
 つまり自民党の中には「お前を国会議員にしてやろうと言ってるのに、要求を突きつけるとは何事だ」という傲慢な意識があるのではないでしょうか。
 その傲慢な意識の元「お前は人気があるから特別に公認してやる、ありがたく思え。公認してやってるんだからその事に感謝して票を献上するのは当たり前だろう?」という思考パターンが常態化。
 その思考の流れがいつもの「使い捨て集票マシーン」作戦に繋がっているのではないでしょうか。

 余所様の人気に頼る前に、自分達の主張や信念で有権者を惹き付けなければ政党とは言えないでしょう。
 民主党が政権を取るのも少々不安ですが、このアホ過ぎる傲慢な思考パターンから抜け出すために、しばらくの間下野して党内の意識改革をし政党として一から立て直した方が、長い目で見た場合自民党にとってプラスになるのではないでしょうか?
 もちろん、そうやって「本当の意味で生まれ変わった自民党」が誕生すれば国民にとってもプラスになるはずです。
FC2 Blog Ranking←一理あるな、と思ったらクリックしてね。
スポンサーサイト
 先日、臓器移植法改正法案が衆議院で可決されました。
 今後参議院で審議をされるはずなのですが、どうも政局が揉め始めたようなので審議される前に解散総選挙という事になると、この法案がその後どうなるのか全くわからない。

 可決された法案を改めて確認すると、

 ・脳死は人の死である
 ・本人の同意が無くても家族の承諾で臓器提供ができる(本人があらかじめ拒否の意思表示をする事は出来る)
 ・15歳未満であっても家族の同意があれば臓器提供できる

 というのが主なポイントのようです。
 WHOは「臓器移植のための臓器は自国内で供給するのが望ましい」という方針のようですし、世界的にもこの流れのようです。
 現時点でも日本国内での臓器移植は少なく、臓器移植を必要としている患者全員を救うには程遠い状態になっています。
 その上子供の臓器移植を認めていないので、子供の患者は海外まで臓器移植を受けに行かなければならないのですが、WHOのこの方針だと海外移植の道も断たれかねない。
 臓器移植を受ける側の立場で考えるならば、この改正案は大きな前進です。
 この方向で行かなければ近い内に「日本人は日本人であると言うだけで臓器移植を受けられず、助かるはずのものも助からない」という状況になりかねませんから。
 ただ、これで問題が無いかどうかと言うと、これまた微妙な所です。
 どこまで信用して良いのかわかりませんが、世論調査では国民の多くが「脳死=人の死」という考えには難色を示しているそうです。
 素朴な疑問なのですが、そもそも日本人は「脳死」という状態を理解しているのでしょうか?
 どうも多くの人が「脳死」と「意識不明」「植物状態」を混同しているように思えるのですけど…
 簡単に言ってしまうと意識不明や植物状態は回復の可能性があるが、脳死は回復の可能性が無い、という状態です。
 もうちょっと詳しく言えば「脳幹」という生命維持に必要な部分が生きているかどうか、という事です。
 この違いが正確にわかっている人はどれくらいいるのでしょうか?
 パッと見た感じだと、この三つはどれも「患者の意識が無く横たわっているだけ」なのでその違いがわかりにくいと思うのですが、回復の見込みがあるか無いかでは全く違うでしょう。
 世論調査を参考にする前に、その世論の元になっている国民の「脳死に対する理解レベル」がわからない事には、どこまで信用していいものか…
 逆に言えば脳死と植物状態の区別もついていないような国民だとしたら、まず脳死という状態に対する理解を深めてもらう方が先決ですが。

 国民全員が脳死を正確に理解した上で、上記の世論調査のように反対しているとしたら、これはもう国民全体で「誰を助けるべきか」という議論をしなければなりません。
 そもそもWHOが海外での移植を止めるようにという方向へ持って行こうとしているのは、先進国による事実上の臓器売買を避けるためという狙いがあるようです。
 臓器売買というととても凶悪な人権上の犯罪という気がしますが、何もそういう犯罪を例に挙げなくとも海外移植をするというのは、その国で本来助かるはずだった別の人を後回しにするという事なので、状況だけ見れば命を金で買っているというのと似たような状況になっています。
 全てが何の問題も無く合法的に行われていたとしても、例えば日本人がアメリカで臓器移植を受ければ、アメリカに住んでいるアメリカ人の移植待ちの患者がその日本人の分だけ後回しにされるわけです。
 しかし現状ではその逆であるアメリカ人が日本で移植を受けるという事は行われていない。
 個人レベルの倫理問題はともかくとして、国家間の立場として「貰うのはいいけどあげるのは嫌」というのは不公平ですよね。
 日本人がアメリカ人の臓器を貰うのはOKだが、アメリカ人が日本に来て日本人の臓器を移植するのは事実上不可能、というのは不公平です。
 公平さを保つならば日本でもアメリカ並みに移植を受けやすくするか、日本人が海外で移植を受ける事を禁止するかのどちらかしかないでしょう。
 そしてWHOは「自国民は自国の臓器で救え」という方針を打ち出そうとしているわけです。
 まぁ、公平ですよね、普通に考えたら。
 この流れは理屈で考えれば当然の結果ですし、このまま行くと日本人は臓器移植が受けられなくなり助かるものも助からなくなるので、今回の改正案は助けるためにはやむを得ない決断と言えるでしょう。

 が、これで問題が無いかと言うとそうでも無さそうです。
 先ほども書きましたが「誰を助けるべきか」という議論です。
 今回の場合、この言葉はさらに残酷な内容を含んでいます。
 要は「誰を殺して誰を生かすか」という命の選択をしろ、という事になってしまいます。
 今までは事実上、「脳死になっている人を生かして、臓器移植を必要としている人を殺す」という選択肢を選んでいたわけです。
 これが逆になり「脳死になっている人を殺して、臓器移植を必要としている人を生かす」という方向にしようというわけです。
 「殺す」とか「生かす」という言葉は非常に強い言葉ですが、現実を直視すればこういう表現はしっかりと当てはまります。
 キレイな言葉で言い換える事も出来ますが、やっている事実は変わらない。
 ここは現実を直視すべきでしょう。
 さらにエグイ言葉を使うならばこういう事になります。
 「回復の見込みの無い人間を生かしておくよりも、回復の見込みのある人間を生かしたほうが良い」
 かなり嫌な表現ですが、仕方が無いです。これが現実ですから。
 脳死になっている人から複数の臓器を取り出し、複数の人に移植をするという前提で考えれば、一人の命を犠牲にする代わりにたくさんの人を助ける事が出来るわけで、数字で考えれば移植を進めた方が有益です。
 社会全体で考えても、社会復帰の可能性が無く経済活動がプラスにならない脳死者よりも、回復すれば社会復帰をして経済などで社会貢献をしてくれる人間が増える方がプラスでしょう。
 …こういう考え方は「人の命は地球よりも重い」と考える人たちには残酷で冷淡な考え方として映るのでしょうけど。
 しかしその人たちに「では移植待っている人に対して『命を諦めろ、死ね』と言えるのか?」と問えばおそらく答えはNOでしょう。

 多くの人にとっては臓器移植は「自分とは関係の無い事」であり、深く考えると面倒だし自分の人間性にも関わるので避けて通りたい事、なのではないでしょうか。
 それでもこの問題は突然当事者になる可能性を秘めています。
 しかも面倒な事に「脳死」側になるか、「移植待ち」側になるかは「天のみぞ知る」というところ。
 ある日突然自分もしくは家族が「脳死」になったり、「移植が必要」になったりするわけです。
 そして多くの人は自分が「脳死」の側になれば「臓器移植反対」になり、「移植待ち」の側になれば「臓器移植賛成」に回るのではないでしょうか。
 「理」で考えれば臓器移植賛成の方が社会にとってはプラスのはずですが、「情」で考えるとそうもいかない。
 まして「移植のために同意をする」という条件ですから考えようによっては「自らの手で家族の死を選択する」という事になり、その決断によって一生十字架を背負うかもしれない。
 だからと言って移植を拒否すれば「あの人は回復の見込みの無い家族の命の為に、助けられる人を助けようとしなかった」などという言われ方をするかもしれない。
 他人にそう言われなくても自分自身でそういう方向に自分を責めてしまうかもしれない。
 「情」で考えると収集がつかなくなります。
 さらに酷い修羅場を考えれば、「移植待ちの患者が臓器提供を受けられずに亡くなった」場合その遺族が、たまたま近くにいた「臓器移植を拒否した脳死者」の家族に対して「お前のせいで私の家族は死んだんだ」という暴言を吐くというような事も起きるかもしれない。

 頭が痛い問題です。
 いろいろ考えて行くと、法律その物の改正も大事ですが、国民の側の理解を深めたり、社会的な同意や意識の変化の方が重要なのでしょう。
 世界的には「自国内での移植を増やす」という方向のようですし、日本もそうなって行くでしょう。
 となればまず、「自分自身で移植の拒否表示をしなかった場合は、移植を望んでいたものと見なす」という考え方を広めなければなりません。
 この考えを広めておく事で脳死になった際に家族が「私が家族を殺す決断を下した」という十字架を背負う可能性を減らす事ができるでしょう。
 「この人は拒否をしなかった」という事が「この人は心の奥で他人の為に自分を捨てる決心をしていたのだ」という風に考える事が出来るでしょう。
 逆にあらかじめ拒否をしていた人に対して「アイツは自分さえ助かれば良いと思っていた自己中心的なヤツだ」という偏見を広めないようにする必要もあります。
 同様に移植を拒否した家族に対してもそういった偏見が広まらないようにする必要があります。
 そのためには「命とは何か」という事は社会的合意によって決まるのではなく、個々人がそれぞれの価値観で決めるべきものだ、というような考え方が社会に根付いていく必要がありそうです。
 また「移植を受けた側」も「当然の権利」と考えるのでもなく、だからといって「誰かを犠牲にして生きている」と卑屈になるのでもなく、「命を受け取った」「命のリレーをしている」というような考え方をして行く方がいいでしょうし、社会全体も移植を受けた人に対してそういう考え方で接した方が良さそうです。
 当然ですが、移植を拒否し脳死状態を維持し続けようという考え方も、批難されるべきではないでしょう。
 いつか回復するかもしれない、現代医学では不可能でも医学が発展して行けばその時に回復する手段が見つかるかもしれない、という可能性に賭けているのですからその意思は尊重されるべきでしょう。
 それもまた一つの生き方です。

 それにしてもこういう問題は多くの人にとって非常に扱い難い悩みではありますが、考えようによっては極めて贅沢な悩みでもあります。
 今までの人類ならば、脳死であろうと移植が必要な患者であろうと、助けられずに死んでいたわけです。
 それが今では医学の発展により、かつてならば助けられなかった命が助かるようになったわけです。
 誰を助けるべきか、誰を犠牲にして誰を生かすべきか…
 残酷な問いではありますが、そういう問いかけが出来るようになったこと自体が幸福なのかもしれません。
 この残酷さは幸福に対する対価なのではないでしょうか。
 そしてさらに医学が発展していけば、そう遠くない未来にはこの残酷な問い自体が不要になるかもしれません。
 現在、再生医療の分野は急速に発展しています。
 30年後か50年後かはわかりませんが、人間はそのうち「移植に必要な臓器」をクローン技術などによって自由に作り出すことが出来るようになるでしょう。
 そういう時代になれば「誰を犠牲にして誰を生かすべきか」という残酷な問いは必要無くなります。
 この残酷な問いは未来永劫続くものではなく、医学が発展するまでの暫定的な問いでもあります。
 「今は不本意ながら仕方なくこういう決断をしている、しかし医学が発展すればいつかは…」そういう風に考えれば、今この瞬間の決断の重荷も少しは軽くなるのではないでしょうか。
FC2 Blog Ranking←一理あるな、と思ったらクリックしてね。
 どうでもいいような話なのですがここ数日、空から何かが降ってきたというニュースが一部で「珍現象」として報じられています。
 最初は石川県でオタマジャクシが地面に落ちているという事で話題になり、さらに別の場所でも同様にオタマジャクシや小魚が落ちていて、「鳥が運んできた」とか「竜巻に巻き込まれた」と諸説入り乱れ原因不明のまま。
 それだけではなく、今度は広島県でもオタマジャクシやカエルが落ちていたそうです。

 空から何かが降ってくるというのはいかにもオカルト的で珍現象なのですが、ここまで続くと別の考え方をしたくなってきます。
 つまり、「実は年がら年中こういう事は起きているのではないか」という素朴な疑問です。
 もしかしたら日本全体では毎日こういう現象が起きているのかもしれません。
 ただ、普通そういう現象を見たとしても多くの人が「何か変だな」とは思いながらもいちいち気にも止めないのではないでしょうか。
 いつも人のいるところに落ちているとは限りませんし、落ちているのが道路の上かもしれません。
 そういう時人は「何だろう?」と一瞬は思いながらも「誰かがイタズラでもしたんだろう」というような具合にあまり関心を払わず、無視しているのではないでしょうか?
 ところが今回、たまたま誰かがこの現象をマスコミに知らせた。
 そこで「珍現象」として取り上げられたので、多くの人の注目を集めた。
 そしてそのニュースを見た人が普段無視しているような現象に改めて注意を寄せた所、「こっちでも珍現象が起きているぞ」と「新発見」をしただけなのではないでしょうか。

 今回の空から降ってくるというのとは違いますが、似たような心理現象は世界中で起きているようです。
 例えばシーラカンスもその一つでしょう。
 シーラカンスが初めて「発見」された時は「生きている化石」と大騒ぎになりました。
 ところが現地の人はこの「生きている化石」の事をもっと昔から知っていたんですよね。
 現地の人にとってシーラカンスは「食べるとマズイ魚」として有名で、むしろ嫌われていたようですから。

 つまり人間というものはいつも当然のように目にしている物事に対しては、その希少性に気付かないという傾向があるようです。
 この傾向、心理的盲点とでも言いましょうか、場合によっては結構マズイ事になるケースも多そうですよね。
 組織ぐるみの不正とか、やってはいけない作業工程とか…
 普段から当然のように行っていると、その異常さや危険性に気付かないというような事に発展するケースもありそうです。
 食品の偽装とか政治腐敗などもそういう流れの中にあるのかもしれません。
 逆に、マトモだと思っている私たち自身はどこまで「マトモ」なのでしょうか?
 「当然」とか「常識」と思っているような事の中に「実は大きな間違い」が潜んでいないとは言い切れないのかもしれませんよ。

 ふと立ち止まって、「これは本当に正しいのか?」と自問してみるのも意外な発見があったり見識を広めたりする良い機会になるのではないでしょうか?
 それは不正を見つけたり危険を回避するだけでなく、新たなチャンスを生み出すきっかけになる可能性も秘めているはずです。
 改めて、普段目にしている物事に注意を払ってみれば何かとんでもない「新発見」や今まで気付かなかった「幸福」を見つける事も出来るかもしれませんよ。
 「髪はセットしてあるか」
 「ヒゲの剃り残しはないか」
 「(服の)ボタンはかけてあるか」
 「鼻毛が伸びていないか」
 …これ何だかわかりますか?
 「小学生の遠足のしおり」とかではないですよ。
 自民党の議員に選挙対策として配られた「心をつかむ!政治家マナー講座」という名前の小冊子の中身だそうです。
 こういう一般人なら誰でも知っているような最低限の身だしなみに関する項目だけで23項目もあるそうです。
 他にも冠婚葬祭対策として「スピーチはなるべく短く(中略)披露宴に場違いな政局の話などは控えたほうが印象はよさそう」「身だしなみを整え、披露宴にふさわしい礼服で出席しましょう」というような内容まであるそうです。
 …自民党の議員ってここまで酷いの?
 何かのジョークかなぁと思っていたら「何も分からないまま議員になってしまった小泉チルドレンを筆頭に、子供の頃からチヤホヤされて、親や後援会に大事にされてきた世襲議員にも、一般常識が欠けている人は少なくありません。お辞儀や握手の仕方も知らない彼らには、大いに参考になるんじゃないでしょうか」という永田町関係者の証言まであるようですし…マジ?

 あまりの情けなさに開いた口が塞がらないんですけど、どうしたらいいんでしょう。
 自民党は他にマトモな候補者とかいないんでしょうか?
 全ての自民議員がこのレベルというわけではないでしょう。
 それなりに優秀な人たちだっているはずです。
 だからこういう低レベルな人たちはごく一部だと信じたいのですが、1~2人、もう少し多かったとしても少人数なら直接言えば済む話ですよね、こういうのは。
 面と向かって言うと角が立つというならば秘書などを通じてやんわりと忠告も出来るはず。
 それをわざわざ小冊子を配っているという事は、ひょっとして「大多数がこんな感じの人たち」なんでしょうか?
 私達日本人は「服のボタンも満足にかけられないような人たち」に政治を委ねているんですか?
 さすがに勘弁して欲しいんですけど…
 まぁ全員が全員こんなのばかりではなく、当然マトモな人もいるはずなんですよ。
 1割ぐらいしかいないかもしれませんけど…

 あまりにも酷いので少々混乱しているのですが、とりあえず全ての原点から考え直してみましょうか。
 一般論です。
 普通、「政治家になろう」と志すような人は、きっと何か理想のようなものを思い描いているはずですよね。
 それが本当に良い社会なのか、逆に悪い社会なのかはわかりませんけど、良くも悪くも何がしかの想いを持っているはずです。
 また、具体的なイメージにはなっておらずかなり漠然としたイメージかもしれませんが、それでも何かを心に持っているはずです。
 もっと単純に「このままじゃ日本はダメになる」という簡単な危機感からかもしれませんけど、それでも一応「真剣になるだけの動機」にはなりますよね。
 仮にそういう志を持った青年「A氏」がいたとしましょう。
 A氏はこう考えるわけです。
 「私がどうにかしなくてはならない」と。
 その方法として政治家という生き方を選んだA氏は、政治家になるためには選挙で当選しなければいけないと考えます。
 その時点でA氏が優秀な人間ならば気付くはずです。
 「多くの人の支持を得るためには、マナーや身だしなみを整えなくてはならない」と。
 また、A氏が優秀ならばこういう風にも考えるはずです。
 「私の考えを多くの人に理解してもらうには、わかりやすい説明の仕方や演説の方法を学ばなければならない」と。
 民主主義の選挙なのですから、当選するためには多くの人の信頼を集めなければならない。
 A氏のように考えるのは基本であり当然だと思います。
 マナーや身だしなみ、説明や演説のようなコミュニケーション能力が無ければ、政治家になるのは難しいでしょう。
 そう考えればこれらの能力は「政治家になる前に既に身に付けているはずの能力」なわけです。
 まして「優秀な人間」ならなおさらでしょう。
 常識的に考えて、弁護士になってから法律の勉強を始める人間はいません。
 同様に、医者になってから医学の勉強を1から始める人間もいません。
 社会的に重要な職業に就く人間は、その職業に就く前に「専門家としての最低限の能力」を身に付けているものです。
 そういう能力が身に付いてから、それらの職業に就くはずです。
 …政治家は違うのでしょうか?
 身だしなみだのマナーだのという「超基本的な事」すらその職業に就いてから身に付けるものだ、と考えているようです。
 あまりにも酷い…
 一般の会社ならば、とりあえず就職した後に配置先で必要な技術を身に付けるという事はあるでしょうけど、政治家はそういう事ではないはずです。
 麻生総理が以前ハローワークにて、派遣切りにあった人に「君ねぇ、何がしたいのかわからないんじゃぁ雇う側もどうしていいかわからないよ、まず自分のやりたいことをキチンと見定めてから…」なんて説教を垂れてました。
 あの時点では「選り好みしていたら仕事なんて無いんだよ」という現実があったので、失笑を買っていましたがあの発言の趣旨自体はそう的外れでもない。
 自分のやりたいことを見定めてから、というのは大切な事です…政治家にとっても!
 自分で理想を抱いているからこそ、本来は政治家になるはずだし、強い思いがあり日本を率いるだけの力のある優秀な人間ならば、当然身だしなみだのマナーだのコミュニケーションだのといった能力は「立候補をする前の段階」で、もしくは「志を持った時点で」身に付けているはずの能力です。
 どうやら自民党の議員さんには「その程度の能力さえ無い人間」が相当な数存在するようです。
 何でそんなのが国会議員になってるんでしょう?
 こんな小冊子配って恥をかくよりも、新しくマトモな人材を探してきた方がよっぽどマシなんじゃないでしょうか?
 議員先生がこのザマでもどうにか今までやってこれたということは、それを支えていた秘書とかがいるはず。
 だったらその秘書を立候補させた方がよっぽどこの国の為になるのではないでしょうか?
 何でこんな人たちに公認を出すの?
 そこからして既におかしいんじゃないですか?

 もう一つ別の視点で原点から考えてみましょう。
 日本は民主主義国家です。
 国の行く末は議会で決まります。
 本来の民主主義では、多数派の意見だけでなく少数派の意見にも耳を傾け、全ての人がそれなりに納得の出来るような方法を話し合いで決めるのが、民主主義における基本的な考え方です。
 が、残念ながら日本の議会はそういう民主主義の基本を理解していないので「多数決で勝った方が負けた方を無条件で従える事が出来る」という「数の暴力」政治がまかり通っています。
 おかしな話ですが、事実だからまぁ仕方が無い。
 で、この「数の暴力」式政治を前提に「自分の理想としている社会」を実現するためには、どうしても「数」が必要です。
 先ほどのA氏のような人物が一人で頑張ってもほとんど無意味です。
 A氏がその理想を実現するためにはどうしても「仲間」が必要です。
 しかし、理想を同じくする人間がそんなにすぐに見つかるとは思えない。
 ならばどうするか。
 一番簡単なのは「自分の意のままになってくれるような人間」をたくさん仲間にする事ですよね。
 そうすればA氏がリーダーになってA氏の理想とする社会を作るために、議会で「数」を握れます。
 意のままになってくれる人間には当然無能な人もいるでしょうが、そこはA氏が応援演説などをしてA氏の人気やイメージで仲間を当選させます。
 有権者も議会で数を握らないとどうにもならないのはわかっているので、直接A氏に投票するわけではなくても、A氏を間接的に支持するという意味で「A氏の仲間」に投票するでしょう。
 このような議会の仕組みが出来上がってしまっている以上、一定数以上無能な人間が議会に入り込んでしまうのは避けられない事なのかもしれません。
 たまにこの「A氏の仲間」が無能なくせに自分の利害の為にA氏を裏切ったりするから、問題が余計にややこしくなったりするわけですが、元々理想とかを持っていない人たちなので、場合によっては「アメとムチ」をちらつかせるだけでコントロールできます。

 こんな風に書くと実もふたも無い気がしますが、概ねこんな感じではないでしょうか?
 アホでも何でも「一人は一人」です。
 無能であろうが何だろうが、議会での一票を持っているわけですから、志のある人間にとってもこういう「残念な人たち」というのは「必要な手駒」なわけです。
 でも、国民としては納得がいかない。
 何で服のボタンをかけているかどうかを「他人に言われないとチェックできないような人たち」を議員先生と呼ばなければいけないのか…
 本当に情けなくなります。
 で、このアホ過ぎる状態の解決法なんですけど、思い切って議員数を大幅削減してしまったらどうでしょうか?
 要は民主主義という「数の大小で国民の意見を反映させる」、という仕組みさえ生きていれば良いわけですよね。
 ならば議員の数がある一定以上さえいれば、問題は無いわけです。
 以前から国会議員の人数を削減しようという声や動きはありますが、一向に実現しておらずまたその削減数も全体の10%前後という程度です。
 先ほどから言っていますが小冊子を配らなければならないぐらいの大多数が「残念な人」レベルなわけですし、逆に言えば本当に優秀で必要な人は全体の1割ぐらいなのでしょうから、いっそ議員数を9割ぐらい削減してしまったらどうでしょうか?
 さすがに9割も削ると、優秀な人ばかりにはなるでしょうが議会運営にギリギリの人数になりそうですし、ギリギリの人数だと後継者が育たない可能性も出てきます。
 ならば少し譲歩して75パーセントの削減でどうでしょう?
 議員の数を現在の4分の1にするんです。
 実際に現役で動ける優秀な人はその半分ぐらいで、残りの半分は次の世代の後継者候補、というような割合です。
 これでも現在いるであろう10パーセントぐらいの優秀な人たちはちゃんと残る計算になります。
 議員総数も180人(優秀な人90人+後継者候補90人)ぐらいでしょうか。
 とりあえず民意の反映という面では問題は無さそうですよね。
 とはいえ、議員の人数を4分の1まで削減してしまうと、仕事量は4倍に増えてしまうでしょう。
 それでは議会の運営に支障が出る可能性があります。
 そこで解決案その2。
 「歳費と公設秘書の数を4倍にする」というのはどうでしょう?
 議員の人数を4分の1にしたので歳費と公設秘書の人数を4倍にしたところで、かかる費用は変わりません。
 議員がどんなに優秀であっても、個人で出来る仕事の量は限られているはずです。
 多くの仕事をこなしているという事は、それだけ多くの仕事を「秘書と共にこなしている」はずです。
 もっと極端に言えば、議員は「秘書が持ってくるアイデアに対してイエスかノーかの決断をしているだけ」という可能性もありますし、またそういう仕事のやり方だってあるでしょう。
 仕事の多くをあらかじめ秘書にわかりやすくまとめてもらっておいて、議員はその小さくまとまった資料などを基に判断を下していく。
 そういう風にやれば、議員の数が大幅に減った所でその分秘書の数を増やせれば同量の仕事がこなせるのではないでしょうか?
 というか、そもそも議員は「議会に出ている全ての議案に対してイエスかノーかの意思表示」をしているはずです。
 という事は当然全ての議案に対する正確な理解が要求されているはずから仕事量は変わらないかも。
 もっとも現在の仕事の仕方はおそらく「党の方針はこうです」という連絡が来て、それにしたがっているだけだと思いますが。
 でも、この「党の方針」だって誰かが決めているのでしょうし、その決断を下している人は「自分で1から全てをこなしている」のではなく秘書など誰かが「わかりやすくまとめてくれた状態」に対して決断を下しているだけのはず。
 決断の数は多くなるでしょうが、「自分の理想を実現するためにこの議案は通すべきか否か」という判断基準の下で「わかりやすくまとめてくれた状態」のものに決断を下すのならば、そんなに困難な仕事量ではないはずです。
 議員立法なども政策秘書が4倍になるので、今まで通り出来るはずです。
 何よりも、無能な議員でも議員を続ける以上はその下に秘書が一定数必要ですが、無能な議員の下にいる秘書がその持っている実力の全てを発揮できているかどうかは疑問です。
 逆に優秀な議員は、もっとたくさんの秘書がいればもっとたくさんの仕事がこなせるはずだ、と考えているでしょう。
 議員の数を大幅に削減し、余った秘書を優秀な議員の下に回した方が、より多くの仕事をこなす事が出来るのではないでしょうか?
 また、総議員数が多いからこそ「無能な駒」が必要になり、その結果「世襲」でも無能でも数合わせになれば何でも良い、という考えから「世襲問題」が発生する温床になりますが、総議員数が少なくなればそういう「無駄なイス」を維持する必要もなくなるし、むしろ優秀な人を集めるために無能な人を減らして行く方向に動くでしょう。
 …本当に優秀なら、世襲であっても秘書などを経由してから実力で議員になるでしょうし。

 議員の総数を大幅に減らす事で優秀な議員だけを残し、議員一人当たりの秘書の数を大幅に増やす事でこなせる仕事量を増やす。
 そうする事で優秀な議員に優れた判断を数多くこなしてもらう事が出来、結果として社会が良くなっていくのではないでしょうか?
 「無駄な駒」を減らせば、優秀な人たちばかりになるので意思の疎通も容易になるでしょうし、少人数の方が話し合いもスムーズに進みます。
 また「無駄な駒」たちの裏切りや政界の権力争いも今よりも減るのではないでしょうか?
 少数精鋭になると権力争いが激化する恐れもありますが、人数が少なければ切り崩しなどを抑えるための手間も少なくて済むので、派閥争いのような政治力学に費やされていた無駄なエネルギーを大幅に減らす事も出来るはずです。
 少なくとも「小学生の遠足のしおり」のような小冊子を配る必要性は無くなるのではないでしょうか。
FC2 Blog Ranking←一理あるな、と思ったらクリックしてね。
 もうずいぶん前になりますが、昨年の8月に当ブログで「トヨタの労働者はトヨタ車を買えるのだろうか」という記事を書きました。
 内容を大雑把に要約すると、あの当時(リーマンショック前で派遣切りが騒がれる前)経団連のエライ人たちが「日本の景気はものすごく良くなっているのに、何でみんな物を買わないんだ?」という実態を反映していない発言をしていたので、それに対して「景気が良いのに給料を増やさないから、消費者は金を使いたくても使えないんだ」という反論を少々過激な文章で書いたものです。
 景気回復・内需拡大を願うならば消費者=労働者にもっと金を回せ、というのが結論でした。

 今でもその主張が根本的に間違っているとは思っていないのですが、GMの破綻原因を考えると少々複雑な気持ちです。
 直接の理由はともかく、GM破綻の遠因として「高すぎる給料や手厚すぎる社会保障費」が経営悪化の根本原因になった、と言われています。
 日本の場合は「多くの会社が経営学的に正しい事をした結果、社会全体が経済学的に困った状況になった」わけですが、逆にGMは「経済学的に正しい事をした結果、経営が立ち行かなくなってしまった」わけです。
 かつてGMは「GMにとって良い事はアメリカにとっても良い事」と言われたそうですが、同時にどこかで「アメリカにとって良い事はGMにとっても良い事」と考えていたのかもしれません。
 労働者に対して高い賃金や手厚い社会保障をする事が間違っているとは思いません。
 ただ、それが行き過ぎた…
 アメリカは日本と違って「国民皆保険制度」ではありません。
 そのため医療費の個人負担は日本よりも遥かに高額です。
 しかしGMの社員や元社員は医療費などをGMが全額負担してくれていたので、事実上医療費は無料だったそうです。
 また退職後の年金もかなりの金額だったとか。
 社員の年収が1200万円だった、という報道もありました。
 労働者にとっては「とても良い会社」だったと言えるでしょう。
 当然その労働者にとって良い環境を作る費用負担はGMという会社に回されるわけですけど…
 GMに関しては「ミニ国家」を目指していた、などという報道もありました。
 確かに医療費などの社会保障制度から見れば「アメリカ」という国の中に「GM」というもう一つの国があり、そこに住んでいる「GM人」はアメリカの社会保障+GMの社会保障という二重の社会保障を受けていた、という風にも見えます。
 そしてその手厚い社会保障や高額の賃金・年金は当然「貪欲な消費=内需の拡大」となってアメリカ経済を潤していたはずです。
 世界にアメリカという国しかなければ、GMの経営方針はアメリカ経済も潤す一石二鳥の良い方法だったのかもしれません。
 が、当然世界はアメリカだけではない。
 理由は様々にありますが、GMはその社会保障費の負担の影響もあって徐々に経営難に陥り、結果現在に至る。

 社会全体にお金を回す事で経済を活性化させていたであろうGM方式が破れ、トヨタのような自分の所にお金を溜め込み労働者にお金を回さない会社が生き残ってしまいました。
 労働者にお金を回さない会社ばかりになれば、ここ数年の日本のように「好景気なのに実感が無く、いつまで経っても内需が拡大しない」という社会になります。
 ある意味、GMのようにお金を社員に回す企業がたくさん存在してくれないと本当の意味での景気回復は訪れないのかもしれません。
 しかし今回GMが破綻してしまった事で、社員に対する福利厚生を手厚くし過ぎると経営を圧迫し破綻する、という前例が出来たために今後福利厚生を手厚くする事に抵抗感を感じる経営者も出てくるかも知れませんん。

 変な言い方をすれば、トヨタなどは労働者を食い物にする事で生き残り、GMは逆に労働者に食い尽くされて破綻した、という表現も出来るかもしれません。
 GMは破綻しましたが、トヨタが行ってきたようなここ数年の日本方式も経済的にはいずれ限界が訪れるでしょう。
 簡単に結論を書けば、程ほどが一番、という事になります。
 社員の福利厚生などを経営に影響が出るほどには手厚くせず、かといって内需が冷え込むほどには搾取もせず、という具合に。
 ですが、この「程ほど」には明確な基準がどこにも無い。
 どの程度ならば「手厚くて」どの程度ならば「搾取のし過ぎ」なのかの判断基準がわからない。
 さらにいえば経済が国際化し、海外に安い労働者が存在する現代では企業間の競争が激しくなっており競争力を維持するためにはどうしても社員に回すお金を減らさざるをえない、という問題もあります。
 自由競争に制限を、というと問題になりますが、そもそも物価が大きく違う国同士で「自由競争を行う」という今現在当然のように行われている経済システムは、いつ国家の経済を破壊してしまうかわからないような危険性を孕んでいるのではないでしょうか。
 もちろんそうならないように各国間で色々と調整はしているのでしょうが…

 今のままの経済に対する考え方だと、この先100年ほどたった頃には人類全体の経済が破綻しているような気さえしてきます。
 今回GMが破綻しました。
 これから再建出来るかもしれませんが、以前のように高い給料を労働者に与えるのは難しくなるかもしれません。
 場合によっては日本の派遣社員のような低賃金の労働者ばかりになってしまうかも。
 アメリカ全体に労働者の賃金が下がるような動きが広まれば、アメリカも日本同様内需が小さくなって行くでしょう。
 アメリカでも日本でも消費が活性化しなければ、その分の消費をどこか別の国で行う必要があります。
 当面は中国やインドがありますが、それらの国もこのままの経済システムだと数十年後には同じ道筋を辿り内需が拡大しない、という状況になるかもしれません。
 そうやって次から次へと「新しい市場=大量消費の場所」を求めて彷徨うような経済システムは、本当に正しいのでしょうか?
 50年後・100年後の世界というものを考えると、経済学と経営学、自由競争と社会保障など、様々な意味で「根本的な社会の転換」が必要な気がしています。
 具体的なイメージが浮かんでいるわけでは無いのですが…
FC2 Blog Ranking←一理あるな、と思ったらクリックしてね。

Powered by FC2 Blog
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。