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 何の事だかわかりにくいタイトルにしましたが、早い話が「推定無罪の原則」の事です。
 現代の刑法は「推定無罪」が前提であり、「疑わしきは被告人の利益に」という言葉がそれを象徴しています。
 しかし実際はどうなのでしょう?
 痴漢の冤罪はたびたび起きており、痴漢に関しては「推定有罪」が原則になってしまっています。
 また、先日10年以上前の殺人事件に関しDNA鑑定の再鑑定が行われたところ、DNAの型が一致しなかったという出来事も起きました。
 これなども冤罪の可能性が大きいでしょう。
 別の事件でも冤罪は起きています。
 昨年だったでしょうか、強姦事件の犯人とされた人物が有罪になり、そのまま刑務所で刑に服して出所した後、別件で捕まえた人間がその事件の真犯人だと判明し警察が謝罪し、裁判もやり直して急ぎ無罪判決を出した、などという出来事もありました。
 現行の司法制度や捜査方法には多々問題があるでしょうし、またどのような制度にしたところで冤罪は防げないのだと思います。
 だからこそ、その冤罪を少しでも減らそうと「推定無罪」という考え方を前提にしているのですが…

 推定無罪というのは大雑把に言うと「100人の殺人鬼を野放しにしてもいいから、無実の人間を有罪にしてはならない」という考え方です。
 この考え方自体は間違ってはいないのだと思います。
 しかしこの考え方が社会全体に浸透しているか、となるとかなり疑問の残るところです。
 無実の人間を間違って捕まえないようにするのは当然の事でしょう。
 もしもあなたがある日突然「お前を殺人の容疑で逮捕する」とか言われて、わけがわからない内に有罪になって処刑なんかされた日にはたまったものではありません。
 そんな状態がまかり通っていたら中世の魔女裁判のように、ちょっと気に食わないやつを見つけては犯罪者にでっち上げて刑務所行きにする、などという恐怖社会になってしまいます。
 そういう事態を避けるためには「推定無罪の原則」はとても大切な考えです。
 が、では私たちはその恐怖社会にしないための代償として「100人の殺人鬼を野放しにする事」に賛同できるのでしょうか?
 大半の人は出来ないでしょう。
 ですが、これは2択です。
 「恐怖社会」と「殺人鬼野放し」どちらかを選ばなければなりません。
 今まで誰一人としてこんな選択を突きつけられた事は無いでしょう。
 でも現実には私たちは無意識のうちにこのどちらかを選択させられていたはずなのです。
 無自覚の選択、とでもいいましょうか。
 人間が社会生活を営むという事は、こういう「無自覚の選択」を文字通り無自覚のうちに行っているわけですが、本当にそれが何を意味しているのかを立ち止まって考える必要があるはずです。

 もうすぐ裁判員制度が始まるので、その「無自覚の選択」は白日の下に晒される事になるでしょう。
 裁判員になれば「有罪か無罪か」を国民の誰かが決定する事になるのですから。
 そんな時に「推定無罪の原則」は果たしてきちんと機能するのでしょうか?
 「何となくコイツが犯人っぽいから有罪で良いや」はダメなんですよ?
 「何となくコイツが犯人っぽい」は「100%犯人」ではなく「99%犯人」なわけですから、「1%は犯人ではない」わけです。
 その場合は「疑わしきは被告人の利益に」という事で「無罪」にしなければなりません。
 納得はいかないでしょうが、それが「社会のルール」というものです。
 一般常識とは乖離していますが、現代社会を成り立たせている根幹的なルールなんです。
 守らないと「恐怖社会」になりますから。
 それでも多くの人にとっては納得がいかない、という事になるのでしょう。
 問題の本質はむしろそっちにあるのではないでしょうか。
 つまり「日本人の常識は、現代社会の本質的ルールから乖離している」という事です。
 裁判に一般人の感覚を反映させるのが裁判員制度の意義ですが、その一般人の感覚が現代社会の本質的ルールを内包していない可能性があります。
 別の言い方をすれば「日本人は社会のシステムを理解していない」かもしれない、という事です。
 一部の人たちが「日本の憲法は押し付けられたものだ」というような事を言っています。
 その真偽のほどはともかく「現在の日本社会」は「一般的な日本人」が自らの力で作り上げたものではありません。
 現行の憲法はおろか明治維新やそれ以前に遡っても、日本という国では「市民革命」のような事が起きてはいません。
 常に「一部の人たち」が国の実権を争っているだけで、一般市民が立ち上がり市民デモのような状態から市民が実権を握るために革命を起こした、というような事はありません。
 その結果日本人の社会参加意識、特に「社会論などの難しいことを考えたり論じたりする習慣」は他国に比べてかなり低い。
 そのため日々の生活で培った「日常的な感覚=感情」が「社会正義」であるかのような感覚に陥っている。
 そして現在の「日常的感覚=社会正義」としては「警察が逮捕したから悪い人」という感覚があり、「マスコミで報じられているのが真実」という錯覚まで起こす。
 松本サリン事件では無関係な被害者を「加害者」として、マスコミを含む社会全体で追い込んだりしていました。
 日本の「社会正義」はかなり暴走しがちで危なっかしいものです。
 その「危なっかしい社会正義」が裁判に反映される。
 さらにその「危なっかしい社会正義」の根拠になり、また裁判における「予断」になりそうなデータがあります。
 日本の裁判の「有罪率は99.9%以上で世界最高」というデータです。
 この数字、かなり危険な状態なんです。
 世界的に見ても異常な数字。
 でも日本人の感覚だと「司法試験を通っている優秀な検事が捜査し、同じく優秀な裁判官が裁き、優秀な弁護士が弁護した結果」だから問題無い、という感じでしょう。
 有罪率99%という事は「推定無罪」がまったく機能していない可能性もあるわけです。
 当然冤罪も相当数あるかと思われます。
 それに「99%有罪」なら裁判所なんか要らないのでは?
 しかしこの「99%」という数字を見れば多くの裁判員は「これはまず有罪だろう」と判断してしまうのではないでしょうか。
 裁判が始まる前の段階で裁判員が「推定無罪」か「推定有罪」のどちらの意識を持っているかで裁判の内容自体も大きく変わってしまうでしょう。
 推定無罪の考えなら、目の前にいる被告人は「原則無罪」で無罪である事を確認する中でおかしな点が出てきたら「ひょっとして嘘ついてるんじゃないか?もしかして犯人?」という風に考えていくはずです。
 推定有罪なら、目の前にいる人間は「原則有罪」なので無罪であるデータや証拠をわざわざ探し出すような事はしないのではないでしょうか。
 目の前の人が無実であっても、「有罪にするための証拠探し」を始めてしまうかもしれません。
 推定無罪で行くのならばその裁判は「間違って捕まってしまった無実の人を救い出すために、必死になって無罪の証拠を探しどうしても見つからなければ有罪」というスタンスになるはず。
 「推定無罪」で社会システムを維持していくのならば、裁判員はそういう意識でなければならないはずなのです。
 その結果生まれる裁判の結果は「被告人寄り」の「一般常識から乖離した結果」になるかもしれませんが。

 ここで一つ怖い感覚が生まれますよね。
 推定無罪を押し通したら殺人犯が野放しになり、今より治安が悪くなるのではないか、と。
 逆説的ですが、それは大丈夫だと思います。
 というのも「推定無罪の原則」が現在裁判所で機能しているかどうかは疑問ですが、少なくとも「検察の段階」で推定無罪が働いている可能性があります。
 日本の裁判の有罪率は99%ですが、それは検察からすれば「絶対に負けられない」というプレッシャーになっているはずです。
 詳細はわかりませんが、検察が裁判で敗れれば検察官の査定にも響くのではないでしょうか。
 だとすると検察の萎縮を招いている可能性がありますが、その結果検察は「勝てる裁判しかやらない」という選択をするでしょう。
 という事は普通に裁判をして「有罪か無罪か判断をしかねるグレーな案件」に関しては起訴していない可能性があります。
 検察が「自主的に推定無罪」を実行しているかもしれないのです。
 もしそうだとしたら完全に越権行為のはずですが、「証拠が足りなくて公判を維持できない」という言葉をよく耳にする事を考えれば、この検察の自粛は行われている可能性が高いです。
 裁判員が「推定無罪」になる事で治安が悪くなるのではなく、今現在すでに治安は悪い状態にある、という事もありえるのです。
 「殺人鬼が野放しになる」ではなく「今現在野放しになっている」という事です。
 検察や警察が「公判を維持できないから」という理由で起訴しないのは、一度起訴して判決が出ると「一事不再理(一度確定した判決はひっくり返せない)」があるため、証拠が足りないのに起訴して無罪が確定してしまうと、その犯人を二度と捕まえる事が出来なくなるから、それを恐れての事かもしれませんが。
 そちらが原因で「勝てない裁判しかやらない」という状況の場合は、日本の捜査方法や証拠の集め方などを根本から見直す必要もあるでしょう。
 検察側・弁護側、それぞれ山のように証拠や証言を出して、裁判所で総合的に判断するというのが理想でしょうけど、それだと時間がかかる。
 理想の司法システムというのはなかなか見つからなさそうです。

 昨今では厳罰化の流れが強まり、以前に比べて処罰感情も高まっていると感じますが、それは同時に無実の人にも向けられているという意識も持たなければなりません。
 日本では有罪率の高さからか「容疑者や被告人」=「犯罪者」という意識が強いですが、原則として容疑者や被告人は「犯罪者の可能性のある人(無実の可能性のある人)」であって即「犯罪者」ではありません。
 裁判員制度の導入と共に、そういう意識改革もしていく必要があります。
 その上で、なぜ日本でこんなにもヒステリックに厳罰化の流れが強まり、犯罪者排斥の機運が高まっているのかという点も考える必要がありそうです。
 あくまでも個人的な見解ですが、このヒステリックなまでの厳罰化の流れには「悪い事をしているのにのうのうと生きているのが許せない」という意識があるのではないでしょうか。
 その裏には被害者は酷い目に遭っているのに十分な救済をされず、悪人が得をしているのではないか、という意識があるのかもしれません。
 やったもん勝ち、やられ損、というところでしょうか。
 では、仮にこの関係が崩れたらどうなるでしょうか?
 被害者がやられ損で無くなったら…
 出来るわけが無い、と考えるのは早計です。
 場合によるでしょうが、例えば国家が犯罪被害に遭った人に対して金銭などの補償を手厚くするという方法はどうでしょうか?
 というより、海外に比べて日本は犯罪被害者に対する様々な援助が乏しいという現状があります。
 海外では犯罪の被害に遭うと見舞金などが支給され、被害に対する補償が手厚いと聞きます。
 犯罪の被害に遭ってもある程度の補償があれば被害者の処罰感情も少しぐらいは和らぐのではないでしょうか。
 その上での推定無罪ならば「何でアイツが裁かれないんだ」という意識も若干は弱まると思います。
 被害の救済と罪に対する裁きを分けてしまう事で、裁判員が被告を裁く時に遺族の感情に流されずに純粋に「有罪か無罪か」を判断する事が出来ると思うのです。
 社会全体に強い処罰感情があると、極端な事を言えば「とりあえず誰かを裁いて有罪にしておかないと社会に対して示しがつかない」という考えが裁判で発生し、その結果「疑わしいけど有罪にしておく」という冤罪の構図が生まれそうです。
 また言うまでも無く冤罪というモノは「犯人が別にいる」事であり、それは犯人が野放しになっているという事でもあります。
 冤罪か否かはともかく無罪判決が出たところで、それは事件の終焉ではありません。
 無罪判決が出たということは「その被告が犯人ではない」というのが確定しただけで、真犯人の特定には至っていないわけですから、「無罪=事件の終焉」ではなく「無罪=捜査の続行」です。
 真犯人が別にいる場合、その犯人にとっては無罪の方が困るわけです。
 無罪判決が出て、その被告が実は真犯人であったとしても、捜査が続行されていれば警戒態勢が続くわけで次の犯行に及ぶのは困難になるでしょう。警察に目をつけられる事もあるでしょうし…
 無罪になったのは「その一件」に関してだけなので、また事件を起こせばその事件に対して新たに裁判が行われるわけです。
 たまたま一件や二件無罪になった所で常習性のある犯人ならば、その内必ず有罪になるでしょうし、常習性が無ければ次の事件は起きないので治安は保たれます。
 裁判で無罪を出すと犯罪者を野に放ち治安が悪くなるような気がしますが、現実的には無罪が出ても治安が悪くなることは無いでしょう。
 むしろ緊張感が生まれて治安が良くなる可能性もあります。
 仮に裁判で真犯人に対して無罪を言い渡してしまい、その結果次の事件が起きてしまったとしても、それは裁判員や裁判官の責任ではありません。
 一度の公判で有罪にするだけの証拠を集められなかった検察の責任です。
 そういう責任の所在も明確にしておかなければ無用な悩みに苛まれる裁判員も増えそうです。
 「もし、この人が犯人なのに無罪判決を出してしまったら、私の責任かもしれない」などと裁判員が悩んではいけないのでしょう。
 裁判員制度が導入された経緯と昨今の厳罰化世論を考えると、裁判員制度で刑が重くなったり有罪が増えそうな気もしますが、むしろ刑が軽くなったり無罪判決が増える事もありえるでしょう。
 有罪に出来ないのは検察の責任ですし、裁判員は「無罪判決」を出す事を恐れてはいけません。
 むしろ「有罪率99%」を下げ、80%程度になってもいいくらいです。

 …それにしても、推定無罪の原則を徹底して貫き厳格に運用した場合、現在の警察や検察の捜査手法だと現行犯以外は有罪に出来ない可能性も出てくるのではないでしょうか?
 「疑わしきは被告人の利益に」を最大限に使えば「無罪を勝ち取るタイプの完全犯罪」も増えてしまうかもしれません。
 そういう事態を避けるためにも警察や検察の捜査手法が更なる進歩をしてくれる事を願います。
 技術や捜査手法が時代遅れなために真犯人を有罪に出来なかった、では本当に治安が悪くなりますから。
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 先日当選した、森田健作千葉県知事が「無所属か否か」で揉めています。
 新任早々森田知事にとっては頭の痛い問題でしょう。
 それにしてもこの問題、傍目に見るとものすごい矛盾が発生しているのに誰もそこを指摘しません。
 不思議です。
 何が矛盾か?
 森田健作知事の言い分は「完全無所属だから適法」というものです。
 告発した人たちの言い分は「無所属といっているのに自民党の支部代表を務めていたから公職選挙法(虚偽事項の公表)だ」というものです。
 どちらの言い分が正しいかはともかくとして、社会全体はどう思っているのでしょうか?
 えっ?
 そんなの調べてないから分からないって?
 そんな事は無いんですよ。
 新聞もテレビも自民党も民主党も、政治に関わっている人ほとんど全てが「森田=自民党」とハッキリと宣言しています。
 いつそんな事を言ったかって?
 そんな話は聞いた事が無い、ですか?
 そんな事は無いでしょう、皆さん耳にしているはずです。
 「自民党秋田県知事選、千葉に続いて2連勝」って。
 自民党は2連勝で「国民の支持が戻った」と喜んでいるし、民主党は2連敗でショックを受けています。
 マスコミも各社揃って「自民党2連勝」と宣言しちゃってます。
 ほら、完全に社会全体は「森田=自民党」に何の疑問も持ってないじゃないですか。
 国民が勝手に勘違いしているわけではないんですよ。
 当の自民党が「自民2連勝」って事で喜んじゃってるわけですから、事実上自民党が「森田知事は無所属じゃなくて自民党の人です」と宣言しちゃってるようなものです。
 自民党が森田知事の公職選挙法違反を公認してしまっています。
 どういうつもりなんでしょう、自民党…
 さらにおかしな話は続きます。
 秋田県知事も「無所属」って事で当選してるんですよね。
 これって秋田県知事も公職選挙法違反(虚偽事項の公表)って事ですよね。
 どうなってるんだ、この国は?
 この問題の根が深い理由はもう一つあります。
 敗れてしまった民主党の候補も「無所属」を標榜していたようです。
 つまり「勝っても負けても選挙法違反」という状態。
 ちなみに選挙法に違反すると当選無効になる可能性も…
 自民が勝とうが民主が勝とうが結果に関係なく当選無効状態。
 どういう事、コレ?
 頭おかしくなりそうですよ。
 誰を選んでも当選無効って…民主主義が死んじゃってるじゃないですか。
 とりあえず誤魔化した所で汚れた民主主義であることは疑いが無い。
 自民も民主も「自民2連勝だ」と騒いでいますけど、騒げば騒ぐほど「公職選挙法違反が濃厚になっていく」という矛盾。
 また、コントか?
 おかしな笑いがこみ上げてきて、はらわたがねじ切れそうなんですけど。
 マスコミもこの問題スルーってどういう事?
 あえて「ボケ潰し」をして笑いを大きくしよう、とかいう作戦ですか?
 それとも矛盾に気付いていない?

 現状において森田知事がどう言おうと、マスコミもそして自民党自身が「森田=自民党」を宣伝して既成事実化させようとしています。
 秋田県知事も同様の状態。
 という事は両知事が「身の潔白」を証明するためには「自民党と絶縁宣言」をするしかない。
 でもそうなると当の自民党は「自民離れが加速する」事にもなるでしょう。
 せっかく当選した両知事の功績、自民2連勝が幻に消えるのですから。
 しかし絶縁宣言をしなければ知事二人がその地位を追われることになる。
 かといって絶縁宣言を認めれば「知事が二人も絶縁するって…自民党ってダメなんじゃない?」というイメージが国民に広がり自民離れが加速。
 どっちに行ってもダメな感じなのに、当の自民党は大喜び。

 よく練られたシナリオのコントだわ、コレ。
 とてもマネできない…
 問題はこの高度に練られたコントの内容にマスコミを始め多くの国民が気付いていない所でしょうか?
 この政治状態は笑うところだぞ、みなさん。

 困った事にコレがコントではなく現実で、明らかな矛盾も「何も無かった事」にして風化させてしまうのが現在の日本社会ですけど… 
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 最近は金融危機の影響であまり聞かなくなりましたが、少し前まで社会全体で「ものつくり」という言葉が使われていました。
 そして、今後経済が回復すると共におそらく再び使われ始めると思うこの「ものつくり」という言葉ですが、具体的にその意味するところは何なのでしょうか?
 「日本が誇るものつくり」「日本はものつくりで生きていく」「ものつくり立国」などなどスローガンは勇ましいのですが、その実体はちょっと怪しい。
 この手の「ものつくり」という言葉でよく使われる例が2パターンあります。
 どちらも「日本が世界に誇る最先端技術」という言葉で表現されますが、実態は全く逆のイメージの2つです。
 一つは「研究技術」系とでも言いましょうか。
 大手メーカーなどが博士などの科学者と作る今までこの世に存在しなかった新しい技術の類です。
 もう一つは「職人の神業」系と便宜上名付けておきましょうか。
 町工場などにいるその道何十年という超ベテランの職人さんが作る、指先の感覚だけで数ミクロンを感じ分けて作り上げる精密部品の類です。
 「NASAのスペースシャトルの部品を作ってます」というような宣伝に使われるようなヤツですね。
 どちらも日本が世界に誇る最先端技術です。
 ですがこの2つ、本当に「ものつくり立国」が出来るほどの技術なのでしょうか?
 もちろんこれらの技術が優れている点には異論はありません。
 問題はこれらが出来る人間が何人いるか、というところです。
 「研究技術」系の人たちは社会全体から見ても数パーセントもいないはずです。
 「職人の神業」系に至っては名簿作って数えられるぐらいの人数しかいないでしょう。
 両方足しても国内の人口のわずか数パーセント。
 たったこれだけの人数の技術力で「ものつくり立国」ですか?
 いくらなんでも無理があるんじゃないでしょうか?
 「立国」とか「生きていく」というような表現を使う以上、「国民の大多数がそれに関連する分野に関わっている」というような状態のはずでしょう。
 ところが現実には数パーセント。
 これで生きていくってのは無理な話です。
 おそらくああいうスローガンを掲げている人たちは「ものつくり」=「製造業」と考えているのでしょう。
 その図式で考えるなら「ものつくり立国」=「製造業立国」であり、具体的に言えば「日本の工場で日本人が自動車や家電を大量生産し、それを輸出して稼ぐ」という事なのでしょう。
 しかしこの図式は既に破綻しています。
 産業の空洞化という言葉がずいぶん昔から使われていますが、実際に製造業は既に海外に移転されてしまっている事が多く、またそうする事でしか国内のメーカーは生き残れなくなっています。
 中国や東南アジアなど、ゆくゆくはアフリカ諸国が「安い労働力」を武器に生産工場の地位を持って行くでしょう。
 それに対抗するためには日本人の賃金を下げるしかない。
 という事で「製造業への派遣業の解禁」が行われ、それが最近問題が噴出している「派遣切り」の諸悪の根源なわけです。
 逆にあの時派遣業を解禁しなかった場合、日本の大手メーカーの多くは生産拠点を海外に移す事で生き残ろうとしていたので、派遣業を解禁しないと失業率が上がるぞ、と政府を脅していたようなものでもあるわけですが…
 こういう風に考えると少し前に叫ばれていた「ものつくりで生きていく」は「日本人の労働を安売りし、国民の多くを貧乏にする事で国家を成り立たせよう」と言っていたに等しいのではないでしょうか。
 あの言葉の本質にはどこにも「日本が誇る最先端技術」という要素は無かったわけです。

 日本には資源がありません。
 そういう国が国際社会の中で生きていくためには「加工貿易」しかないでしょうし、そういう意味では「日本はものつくりで生きていく」という考え方自体はさほど間違ってはいないでしょう。
 しかし、問題はその中身。
 「日本が誇る最先端技術」という要素を加味するなら、多くの人が「博士」か「職人」にならなければなりません。
 ですが、今の所そういった要素は表立って出てきてはいません。
 むしろその逆をやっているような気すらします。
 以前から言われているのですが「日本の頭脳が流出している」という言葉もあります。
 日本という社会のシステムでは優秀な博士が日の目を見る事が少なく、そのため優秀な人ほど海外に活動拠点を移してしまうという現実があります。
 日本の社会が科学者を冷遇してきた結果です。
 青色発光ダイオードの訴訟など一時期いくらかそういう問題が注目を集めましたが、おそらく報われている科学者や技術者はごく一部。
 「日本が誇る最先端技術」を生み出し「ものつくり立国」に貢献してくれる人たちに対する仕打ちは思いのほか厳しい。
 同様の例は職人の世界でも起きているでしょう。
 これも数年前から起きていますが、定年退職した「神業を持つような職人」が技術顧問として他国に渡って技術指導をしています。
 彼らに言わせれば「定年退職後は日本には居場所が無い」との事です。
 また「日本のメーカーは高い技術を不当に安く買い叩こうとする」という意見もあるようです。
 言われて見れば「世界に誇る職人の神業」を持っている町工場は「神業」を持っているにもかかわらず大手メーカーの下請けで、金銭的にも恵まれていません。
 金銭面だけでなく社会的地位も決して高くは無いでしょう。
 北京五輪の際でしたか、砲丸投げで使う砲丸を作る職人さんが「中国には私の砲丸は送らない」と決めちょっとしたニュースになっていました。
 彼の作る砲丸は非常に精巧に出来ていて、オリンピックを始めとするあらゆる国際大会の場で使われ、多くのアスリートの愛用されていたそうです。
 そして彼の砲丸は世界記録を出すのにも一役買っているそうです。
 いわば「世界一の砲丸職人」です。
 さて、この世界一の技術を持つかけがえの無い人材である職人さんですが、果たしてその希少価値に見合うだけの報酬を得ているのでしょうか?
 具体的な金額は私は知りません。
 しかし、新聞やテレビで映された彼の職場などは決して裕福には見えませんでした。
 例え道ですれ違ったとしても彼が「世界一の技術を持つ人間」だと気付く人はいないでしょう。
 それが良いか悪いかは言いませんが、彼の事を知って「私も職人になろう」と決心する人間がどの程度いるでしょうか?
 「労働=報酬」という考えに拒絶反応を示す人もいるでしょう。
 ですが、それなりの技術を持っている人間に対してはそれなりの敬意と報酬を支払うべきなのではないでしょうか。
 まして世界一の技術です。
 他に代わりがいない、世界にただ一人の人間なのです。
 その希少価値は相当高くて当たり前だと思いませんか?
 弁護士や医者はたくさんいます。
 世界一の弁護士や世界一の名医なら話は別ですが、普通の弁護士や医者ならいくらでも代わりがいるでしょう。
 では世界一の砲丸職人の代わりは?
 いるわけないですよね。
 世界一なんですから。
 ならば世界一の職人さんの地位は、並みの弁護士や医師の遥か上で無ければつじつまが合いません。
 まして一年ごとに代わって誰にでも出来ると言わんばかりの総理大臣など世界一の職人の遥か下です。
 しかし現実には世界一の職人の扱いは「単なる一労働者」でしょう。
 高額報酬どころか社会的な敬意すら払われていない。
 これで後に続く人材が育ちますかね?
 「日本が誇る最先端技術」は果たしていつまで維持できるのでしょうか。

 詳しい事はわかりませんが、ドイツには「マイスター制度」というのがあります。
 ドイツでは職人の地位は日本と比べて遥かに高いようです。
 それが具体的にどういう事なのかまではわかりません。
 しかし、日本に置き換えて考えてみましょう。
 例えば今現在、「大企業の社長さん」と「世界一の職人さん」がいます。
 あなたが「スゴイ」と思う人、もしくは「話を聞きたい」「知り合いになりたい」と思うのはどちらでしょうか?
 正常な日本人ならおそらく「大企業の社長さん」と答えるでしょう。
 これがマイスター制度が根付いているならば、答えは半々になるはずです(職人の世界は狭いのでその分野に興味が無い人ばかり集まってしまう場合偏るでしょうけど)
 また、社会的地位はどうでしょう。
 結婚相手として「一流企業の社員」と「職人」が並んだ場合。
 愛だ恋だという理屈をとりあえず除けるため、仲の良い友人にこの二人のお見合い写真を渡すという設定にしましょう。
 あなたならどちらの方をその友人に薦めますか?
 おそらく「一流企業の社員」の方でしょう。
 日本人の常識的感覚からすれば「友人に一流企業の社員をお見合い相手として薦める」のは無難な判断と言えます。
 上の一文で注意すべき点、わかりますか?
 「常識的感覚」と「無難な判断」という言葉がクセモノですよ。
 普通に読んでいたら何の迷いも無く「まぁ当然だろうな」と思ったでしょう、そこのアナタ!
 その感覚がクセモノなんですよ。
 この「普通の感覚」がある種の差別というか日本における職人の地位の低さを現しているのです。
 もしマイスター制度が根付いている国ならばどちらの人を薦めても無難な判断になるでしょう。
 友人に対して「人柄で選べば?」とか「趣味が合う人がいいよね?」とか「価値観が近い人が良いと思うよ」という言葉が真っ先に出てくるはずなんです。
 しかし今現在の多くの日本人は何の迷いも無く「一流企業の社員」をとりあえず推すでしょう。
 こういう人間関係の分野だけではありません。
 例えば金融関係の信用力はどうでしょうか?
 銀行に「家を建てたいからお金を貸してくれ」と言った場合、一流企業の会社員なら審査もすんなりと通るのではないでしょうか?
 これが町工場の職人だと銀行側も「大丈夫か?」と慎重になり審査も厳しくなると思うのです。
 銀行だけでなくクレジットカードなども同様でしょう。
 こういう小さな事の積み重ねが「社会的地位の違い」という事になります。
 「世界一の職人と話が出来る」ならば「イチロー選手と話が出来る」と同じかそれ以上の価値があるはずなんですが、おそらくそういう風に感じる人はいない。
 「トヨタの社長の講演」と「イチロー選手の講演」の二択なら迷う人は多そうですが、そこに「世界一の職人」が選択肢に加わっても事実上二択のままでしょう。
 それが「社会的地位の違い」です。
 もしも日本が「世界に誇る最先端技術」で「ものつくり立国」を目指すなら多くの人にとって「職人」や「技術者」が魅力的な職業にならなけらばなりません。
 しかし現在の日本は「魅力的な職業」どころか注目さえされていない。
 一時期「カリスマ美容師」というのが流行りましたが「カリスマ職人」という人たちにスポットライトを当てても良いのではないでしょうか?
 技術を披露する場が少ないのも気になります。
 一応「技能五輪」というようなものや「現代の名工」というような制度もありますが、社会的認知度はイマイチ。
 マスメディアでも大きく取り上げられる事は無い。
 あくまでも「知る人ぞ知る」という程度。
 しかもその優勝者や名工たちの収入などもあまり知られてはいない。
 スポーツ選手や政治家、弁護士や一流企業の社員の収入が話題になる事はありますが、職人の収入が話題になる事は滅多に無い。

 もしこれから日本が「世界に誇る技術力」で「ものつくり立国」をするつもりならば、技術者には「特許料」を、職人には「社会的地位」と「その技能に見合った収入」を提示する必要があるのではないでしょうか。
 それらを用意できなければその道を志す若者は減り、優秀な人材も集まらないでしょうからこの国の経済はジリ貧になっていくでしょう。

 昨今「景気対策」に追われその中でしか「雇用問題」を考えられなくなっていますが、派遣切りや期間工のような雇用問題と同時進行でマイスター制度や技術者に対する見返りを考え、それに伴う各種の制度(※)を整備する事が日本が今後大きく飛躍するためのカギになるのではないでしょうか。
 ※各種の制度…マイスター制度やそれに伴う各制度。「学校」や「技術力を認定する制度」、社会的地位や信用の確立、賃金・雇用関係(労働法関連)や雇用保険や年金制度などなど、やれることはたくさんありそうです。
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 世界中が不景気だろうが地球温暖化は進んで行きます。
 現在世界は不況を乗り越えつつ同時に温暖化対策もしなくてはいけない、という状況になっています。
 不況を乗り越えるためには経済を活発化させなくてはならないのですが、変に経済が活発化すると温暖化が進んでしまう。
 そのためただ単に経済の活性化を促すだけではなく、温暖化対策になり得るような分野においての経済の活性化を目指す、という少々面倒くさい状態。
 アメリカではグリーンニューディールというのをやろうとしていますね。

 さて、この温暖化対策。
 「モッタイナイ」という言葉が世界中に広まっていますが、それ以前から「3R」という言葉で表していました。
 3Rとは「リデュース(ゴミの減量)」「リユース(再使用)」「リサイクル(再利用)」という言葉の頭文字が三つともRなので3Rなのだそうです。
 単純に考えればリサイクルよりもリユースの方が環境負荷は小さいと思うのです。
 リサイクルにしてもリユースにしても一度回収しどこかの向上へ運び再商品化して流通させるという点は同じですが、そのまま使い回すリユースの方が一度原料まで戻して別の商品にするリサイクルよりもエネルギーは使わないはず。
 という事は出来る限り物を大切に使い、多少壊れても修理して使うというのが原則としては環境にはいいはずなんです。
 ところがこれを実践すれば当然新品を買う人が減ってしまうので、経済の停滞を招く恐れがあります。
 産業革命以降でしょうか、世界経済は「大量生産大量消費」をする事で発展してきました。
 効率的に大量に作ることで単価を安くし、より多くの人により安く行き渡らせるというのが基本です。
 この効率化の過程で機械化や分業化が進み、さらに効率化を進めました。
 当然生産に使用するエネルギーも膨大な量になっています。
 資料の信憑性に疑問を投げかける学説もあるようですが、地球の平均気温やCO2濃度など温暖化を示す数値が産業革命以降急速に増えたというデータも出ているようです。
 単純化すれば「経済活性化=温暖化」です。
 その図式を少しでも崩すために様々な技術発展をさせ多種多様な「エコグッズ」も作られるようになりました。
 そして一部ではこのエコグッズで景気回復を狙っている節もあります。
 例えば省エネ家電などですね。
 さて、ここで素朴な疑問です。
 「エコグッズを大量生産大量消費する事は本当にエコなのでしょうか?」
 おそらく違うと思います。
 エコグッズだろうが環境に配慮していようが物を生産する限りはエネルギーを消費しますし、それらを流通させるのにもエネルギーが消費されます。
 「エコなら何でもいいだろう」と今まで通りの経済方式で「エコグッズの大量生産大量消費で経済活性化」をすれば、温暖化は進みます。
 大量生産大量消費というやり方自体を改めなくてはならないはずです。
 ではそんな事が出来るのか、というのが問題です。
 ここで今回の記事のタイトル「トヨタの期間工は自動車整備士になれるのか?」という問題になるわけです。
 大量生産大量消費を改め、リユースつまり修理をしてより長く使うという方式に切り替えた場合、あらゆる面に障害が発生するでしょう。
 こういう経験はありませんか?
 何かが故障してお店に持って行ったら「あぁ~、これは直すより買った方が安いですよ」という経験。
 原始的に考えるとこんなおかしな話は無いはずです。
 テレビのスピーカーが故障したとして、他の部分は無事なのですからスピーカーだけを交換すればいいはず。
 なのに買った方が安い。
 一部分の値段より全体の方が安い、という事になってしまいます。
 「リンゴ一個で100円だけど2個買ったら2つで50円だよ」と言われているようなものです。
 原始的に考えると理解に苦しむ現状です。
 もちろん買った方が安いという理由も説明は出来ます。
 念のため簡単に書いておきましょうか。
 まず修理するためには修理箇所を特定する必要があります。
 その作業に人件費がかかります。
 しかもそれなりの技術を持った人の人件費です。
 そして修理箇所を見つけたら部品を取り寄せて、その後で修理します。
 部品の取り寄せにも手間がかかりますし当然修理にも技術を持った人の人件費がかかります。
 商品を「修理センター」などの送る、というような場合は運送費までかかります。
 他にも細かな理由は多々あるでしょうが、要するに人件費(技術料)などが主な理由でしょう。
 現在の経済システムが「修理をせずに新しく買う」事を前提にしてしまっているため、そのルールと違う事をしようとすると余計な費用がかかってしまう、という言い方も出来そうです。
 逆に自転車屋など、そこに全ての部品が揃っていてその場で簡単に修理が出来る様な物の場合は直して使った方が安い、という現象がおきます。
 自転車は構造が単純、というのも理由でしょう。
 この「構造が単純」というのも重要な所です。

 現在出回っている家電や自動車などは非常に多機能です。
 そして構造は複雑怪奇です。
 経済のシステムが「直さない事」を前提にしているので、構造がどんなに複雑化してもしばらく壊れない程度の耐久性があればそれでよかったわけです。
 不良品が出たら新品と交換、という風にしているわけですから複雑怪奇な構造の全てを完全に理解し修理出来る人間など必要が無いわけです。
 それ以前にマイクロチップなどを使っている場合は人間の手で修理する事自体が不可能。
 修理しない事を前提にしているからこそ、小型化が出来、高性能多機能化が出来たわけです。
 さらにこの複雑怪奇な代物を生産している人たちは構造を理解できているかといえば、おそらくできていない。
 大量生産大量消費のための効率化を優先したため、あらゆる作業が分業化。
 その分業化された一つ一つの作業は完全な単純労働です。
 かつて「職人」と言われるような人たちは、一人で全ての作業が出来る人たちでした。
 しかし現代の「労働者」は一人で一つの作業しか出来ません。
 自動車一台を一人で作るのではなく、「ドアを付ける人はドアを付けることしかできない人」です。
 工業だけではありません。
 外食産業はどうでしょう?
 一人で全てをこなす料理人(シェフ)のいる店は減り、ファーストフードのような「一つのメニューを分業制で作る人」ばかりになってしまいました。
 「全てをわかる人間」を育てるのにはそれなりの期間がかかります。
 しかし一つの作業だけを繰り返す人を育てるのは簡単です。
 マニュアルさえ作ればその日の内から可能かもしれません。
 これも効率化です。
 人を育てる作業を効率化してしまった結果です。

 もしリユースを進めるのならば様々な分野の中古品市場を活発化させるのが必要でしょうし、そのためには「修理が出来る人」を大量に育てる必要があります。
 しかも商品自体を「複雑怪奇で修理不可能な物」から「修理が出来る程度に複雑な物」に替えて行かなくてはなりません。
 それはそのまま「大型化低性能少機能」な物ということになるのかもしれません。
 しかしそれだと省エネ技術は使えなくなる可能性もあります。
 省エネ技術は最先端の複雑怪奇でしょうから。
 大量生産をやめるとなれば大量の失業者が出ます。
 そのため「効率的な人材育成」によって生じた「単純作業しか出来ないような人たち」を教育し、「修理が出来る人たち」に育てなおさなくてはならないでしょう。
 期間工から自動車整備士に転職するような事です。
 一体どれだけの人がそれに対応出来るのでしょうか。
 また、その教育費用や教育期間はどのくらいで誰が負担するのか、誰が教育するのかなど問題山積みです。

 となると、それらとは全く別な方法を取る事も考えなくてはいけないのかもしれません。
 例えばパソコンはどうでしょう。
 なぜここでパソコンが?と思う方も多いでしょうけどパソコンの構造というのは結構参考になりそうです。
 パソコンというのは言うまでも無く非常に高度な代物です。
 しかしこのパソコン、ある程度詳しい人なら自分で部品を買ってきて組み上げてしまいます。
 パソコンの箱の中を怖くて開けられない人には理解不能かもしれませんが、パソコンと言うのは「いくつかの高度な部品」が「組み合わさっているだけ」なので少し知識がある人ならプラモデルでも作るように簡単に組み上げる事が出来ます。
 この考え方を他の商品に全て応用するというのはどうでしょうか?
 テレビは「画面」と「スピーカー」とその他の「いくつかの電子部品」に簡単に分けられる構造にするんです。
 どこかが壊れたらパソコンの部品を組み替えるようにテレビの壊れた部品だけを交換する。
 「部品」と書きましたが正確には「部品がいくつか集まったパーツ」です。
 そうやって簡単に一部だけを組み替える事で修理が完了するような仕組みにすれば、壊れた家電が全てゴミになるのを防げ、一部の交換部品だけで済むので資源の有効活用にもなります。
 新しい省エネ技術が開発された場合も、その部品だけ入れ替える事でムダが減るはずです。
 テレビだけでなく自動車でも同じです。
 新しく燃費のいいエンジンが開発されたら「エンジンだけを簡単に積み替えられる」ように最初から自動車自体を設計するんです。
 今までガソリン車だったものをハイブリッドカーや電気自動車、燃料電池車に簡単に変更出来るような自動車の設計を考える。
 当然、各部品が各社で共通して使えるように規格の統一などもしなくてはいけないでしょう。
 難しいとは思いますがこういうのも一つの案ではあります。
 この方法なら「製造業の労働者」が「修理業の労働者」に転職する際、期間工から自動車整備士に転職するよりはハードルが低くなるでしょう。
 他の家電などもそういうシステムに変えて行く事が出来れば修理という技術が比較的簡単なものになり、昔のように「商品の全てを熟知している」ほどの知識が無くても「壊れた箇所を見つけパーツごと交換する」という程度になります。
 それならば短期間で修理の技術を習得させる事も容易になるのではないでしょうか。
 大量生産をやめる事で余ってしまう労働力を吸収しつつエコに繋げる一つの方法だと思います。
 それでもまだ問題は多そうですが…
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