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命の重さ

 え~、本日の記事は明らかな暴論であり極論です。
 この提案を実行した場合、法律上、人道上、倫理上、人権上、大きな問題があります。
 実現させるためではなく、この極論をきっかけにの重さについて考える事ができれば良いかな、という程度で書いていきます。
 あらかじめご了承ください。

 先日も「死刑になりたい」との理由で無関係な人を何人も殺して捕まった若者がいました。
 加害者の親が「死にたいのならば自殺した方がよっぽどマシ」というような趣旨で我が子を叱り飛ばしていました。
 なぜ、死刑になりたいのでしょうか?
 生きているのが嫌になったのでしょうか?
 人生に絶望したのでしょうか?
 なぜ、自殺ではなく死刑を選んだのでしょうか?
 なぜ、他人を巻き込むのでしょうか?
 正直なところ、その気持ちが正確にはわかりません。
 自暴自棄になって「上手く行かないのは周りの人間のせいだ」と他者に憎悪の矛先が向かったのでしょうか?
 この事件だけでなく、世の中には「死にたい」と感じている人がたくさんいるようです。

 その一方で、この社会には病気で苦しんでいる人がいます。
 臓器移植しか生きる道が残っていないのにドナーが現れないというケースが多々あります。
 そういう患者さんたちは言います。
 「生きたいのに生きられない人もいるのだからを大切にして」と。
 また、こう言う人もいます。
 「自殺するくらいならそのを私にください」と。
 悲痛な叫びです。
 しかし、自殺したいと言う人たちの叫びも悲痛です。

 さて、普通ならばここで「生きられない人の分も生きるように、自殺をするのは止めましょう」というのが正論でしょう。
 ですが、今回は先ほど断ったようにそういう常識は無視します。

 では、ここより危険な考え方へ突入します。

 一方に死にたい人がいて、一方に生きたい人がいる。
 ならばこの二人を繋ぐ仕組みを作ったらどうでしょうか?
 つまり、ドナーが死ぬ事を前提とした生体間移植です。
 臓器移植に使える臓器は死んでから時間が経っていない事が前提です。
 そのため死者が出たところで実際に臓器移植が出来るケースは少ないのです。
 もし、自殺志願者が死ぬ事を前提に生きたまま臓器を提供すれば、臓器のロスがなくなります。
 臓器移植の成功率も高まるでしょうし、それで助かる人もたくさんいるでしょう。
 真偽の程はわかりませんが、中国では死刑囚の臓器を臓器移植に使っている、などという噂もあります。
 死刑囚の臓器を臓器移植に使うというのは社会的には問題があるでしょうが、を助けるという点だけで考えれば非常に有効な手段です。
 どうせ死んでしまうのならそのを有効に使う、というのは人間の傲慢かもしれません。
 ですが、ある意味ではとても正しいとも言えるでしょう。
 助けられるを助ける事になるのですから。
 同様に、自殺志願者の臓器も移植に使えば、これもまた命を救う事に繋がるはずです。
 もちろん、死にたいというだけで殺していいのか、という問題はありますし、そんなことをするより前に死にたがっている人の話を聞いてその悩みを取り除くのが先決です。
 経済的な理由なら救済すべきですし、心の病なら治療が必要です。
 若者が未来に希望が持てず絶望しているのなら、そうならない社会を作るのが先決です。
 が、それでも、どうしても死にたいという人に対しては、ドナーとして臓器移植を行うのも一つの方法ではないでしょうか。
 死にたくて死にたくて仕方がなくて、放っておいたら確実に自殺をしてしまうような状態なら国家として臓器移植という形で自殺をさせてあげる。
 普通に自殺をすると苦しかったり痛かったりと大変ですが、病院の手術室で全身麻酔をしてそのまま死んでいくのならその他の方法よりは苦痛が少ないはずです。
 いわば社会的な安楽死。
 そしてその人の体で使えそうなところは全て臓器移植をしてしまう。
 死ぬ事が前提ならば、人体のありとあらゆる場所が使えます。
 また、移植する臓器も最高のコンディションで手術が出来ますし、患者の側も体調を整える事ができます。
 医師たちも万全の体制が整えられるし同時に複数の人間を助ける事も可能でしょう。
 心臓をAさんに、肝臓をBさんに、腎臓をCさんに…
 といったように、一人の命でたくさんの人を助ける事ができます。
 「死にたがっている人を国家が殺してあげる」事が社会福祉になるとは思いませんが、結果としてそれで助かる命もあります。
 どうせ死んでしまうつもりならば、その命を無駄にする事は無いでしょう。
 放っておいたら殺人事件を引き起こし、たくさんの犠牲者が出るくらいなら、その命で誰かを救った方が良いでしょう。
 殺人で死刑になった後に残される加害者の家族よりは、自分の命を犠牲にして他人を助けて死んだ人間の家族の方が、同じ死ぬのでも遺族に対する社会の扱いは全く違う物になるでしょう。
 もし事件を犯して死刑になった場合、事件の被害者、死刑になる本人、臓器移植を受けられなかった患者、の3人の命が無駄になります。
 ですが事件を起こす前に臓器移植をするのなら、被害者は出ませんし、患者は助かる。
 失われる命は本人の命1つだけです。
 そして患者が複数ならばもっとたくさんの命が助かります。
 この文脈で使うのは間違っていますが、あえてこの言葉を使ってみましょう。
 「命がもったいない」
 「命を大切にしよう」
 明らかに本来の言葉の意味とは違う物になっていますが、事実ではあります。
 命を数で数えて損得勘定をしてはいけないのですが、もしそれでも命の計算をするのならば…確実にプラスです。
 死にたがっている人は望みが叶う。
 生きたい人も望みが叶う。
 社会の治安も保たれる。
 血も涙も無い冷酷な考えですが、合理的で効率的で良い事ばかりです。
 法律上、人道上、倫理上、人権上、明らかに間違った考え方なのになぜこのような計算が成り立ってしまうのでしょうか?
 逆に、なぜこの考え方が社会的に間違った事とされているのでしょうか?
 おそらく、人間の命には尊厳があり、足し算や引き算で計算してはいけない物だからなのでしょう。
 ですが、死刑囚の判決などを見てもわかる通り、実際には人の命を損得で計っています。
 これも社会の偽善と言えるのではないでしょうか?

 自殺を容認したり推奨したりする事は出来ません。
 そんな事をすれば人口が減り続け、社会が成り立たなくなる可能性もあります。
 死にたいと思う事が無くなるような社会を作るのがまず先です。
 が、現実には自殺者もたくさんいて、絶望の果てに事件を起こす人もいます。
 そんな現実を見ていると、どうせならその命を他者のために…とつい考えてしまうのです。

 ところで、命って誰の所有物なのでしょうか?
 私の命は私の物で、あなたの命はあなたの物。
 普通はそう考えますが、自分の命で他人の命が助かるのなら、単純に自分だけの物とも言えません。
 宗教的に考える人なら「命は全て神の物」と答えるのかもしれません。
 社会全体から見れば「命は社会的な資産」なのでしょうし、国家からみれば「国民の命は国の物」なのでしょう。
 人類、という視点で見れば「命とは先祖から子孫に向けて繋いでいく物」であり、自分という存在もその大きな鎖の一つに過ぎない、ということになります。
 「自分の命は自分の物だ」という「常識的な考え」はもしかしたらものすごく傲慢な考え方なのかもしれません。

 法律上、人道上、倫理上、人権上極めて問題のある危険な暴論にして極論でした。
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